最後の使徒・渚カヲルをエヴァンゲリオン初号機で握殺して殲滅した碇シンジ。
自分の分身とも思える渚カヲルを殺してしまったことでシンジは自分の殻に閉じこもってしまう。
一方、「人類補完計画」を早急に進めようとする組織ゼーレは、ネルフに対して軍隊を投入。
使徒vs.エヴァンゲリオンの図式は、人間対人間の図式に変化する・・・
といったところから始まるテレビシリーズ第25話・第26話のリメイクは、永井豪の漫画『デビルマン』の終盤に近い雰囲気。
殺戮による絶叫と血しぶき、破壊される肉体・・・
そういった中で、「人類補完計画」が開始される。
それは、
アダムとリリスの融合、生命の実と知恵の実の融合、
それによって、個々で存在する人類が、原初の海状態と化し、単生物(ひとつの生命体)となる、
そして、単生物と化した人類は、最終使徒リリンとなり、永遠の知恵と生命を得る・・・
というもの。
それを恐ろべしいスケールと宗教的イメージでアニメーションとして魅せていきます。
この描写力は、凄まじい、です。
しかし、物語はそこで終わらない。
テレビシリーズでは、「人類補完計画」発動後の世界で、自分の中にある心の不足分を他者の心の中にある自分のイメージで補うことにより、自己肯定をするという決着だったけれども、このテレビシリーズ最終25話・26話の再構築では、現実世界へと戻ってきます。
それも、実写。
映画を観ている観客のショット(それも、ご丁寧に空の客席から始まる)で繋いで、監督・庵野秀明の現実とその他観客の一般世界とを繋ごうとしている。
このことによって映画は混沌を極めていきます。
「エヴァンゲリオン」という架空世界から現実の世界へ、架空の閉じた世界の閉じた物語を期待した観客は、ふたたび現実と対峙させられてしまう。
最後のエピソードは、荒廃した地上に戻ったシンジは、アダムの末裔たる綾波レイとリリスの末裔たる渚カヲルによって「希望」を与えながらも、愛しかつ憎むべき存在(現実世界でのシンジの分身ともいうべき)アスカ・ラングレーの首を絞めるという、アンビバレンツでジレンマを抱えつづける・・・というもの。
テレビシリーズでは現実を否定しても自己肯定を取ったが、ここでは現実世界は受け容れながら、自己が肯定できない庵野秀明自身の苦悩が描かれている。
そう、「エヴァンゲリオン」は作家・庵野秀明の心の変遷を描く物語であり、SFの形を借りた恐ろしくパーソナルな物語なのである。
この庵野心の変遷は、2007年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』から始まるリビルド版へ持ち越されていく。