おたね(飯田蝶子)はようやく父親(小沢栄太郎)が男の子(青木放屁)を引き取りに来たことに、ほっとするがしばらくたたずむ。従来の小津安二郎なら、たたずむおたねの後に人がいない風景を2,3カットを加えて終わりとなる。
だが、この作品はこの後、この映画のテーマをおたねを訪ねて来た近所の住人たちが来る。
おたねに拾った男の子の世話をしてくれと頼む占い師・田代(笠智衆)と為吉(河村黎吉)である。
この時におたねが今の世の中の不人情さをなげくのである。男の子のぶっきらぼうな態度をなじったり、この子に対してヒドイ態度を取った彼女が考えて見れば、今の大人のほうがダメだと気がつくのだ。おたねが男の子をやっかいものとし、冷たい態度を取るのは、終戦後の混乱の中、必死で生きる当時の人々としてはそれも仕方ない。他人のことなどかまっていられない。でも、一緒に暮らしていくうちに情が移り、親がみつからないなら、自分の子として育てようと決心したこの女性が、自分の態度に気が付いただろうと思われる。そしてそこがこの映画のテーマであっただろう。戦争が終わって人の心が荒れてきたことに対する小津の嘆きだと思う。
小津はシンガポールから帰ってきて、一年間休養を取った後に、この作品を手掛けた。休養を取っている時期に、そんな不人情な場面にいくつか遭遇したのだろうと思う。それを映画で訴えるために、このおたねが自分の不人情に気が付く場面を入れたのだと思う。この後の作品は主人公がたたずむ場面に人がいない風景を2,3カットを入れてお終いという小津スタイルがこの作品にはない。
それは観ている人に直接伝えたいということで、ここで監督の気持ちを説明したセリフを入れた。説明セリフは映画作法で一番まずい方法なので、やってはいけないことであるが、たぶん小津は誰にでもワカル方法を採用して、映画芸術的にはどうなのよと言われても良いと思ったんじゃないのかなあ。そういう意味では自分の想いを直接的にラストの演説に長々と入れたチャップリンの「独裁者」にも似ている。もっとも日本ではまだこの映画は公開されていないので、模倣ではない。
こういう説明セリフによるもう一押しの表現はまだ小津スタイルがこなれていないようだ。だが、これをあえて入れたのは、映画の出来がどうであれ、直接説明したいということなんだろうと解釈しておく。
そう思うのはこの映画でひとつおやっと思わせる演出があったからだ。おたねが男の子を自分の子供として育てる決意しただろうと思うところは一緒に記念写真を撮ろうと写真屋を訪れる場面だ。ここで一緒に写真を撮るおたねと男の子の姿が反転して場面が真っ黒になる。古い映画なので、ここはフィルムが劣化したのだろうと一瞬思った。だが真っ黒になっている場面にセリフが聞える。ということはこれは劣化じゃないと判断できる。
そしてここでの小津のアバンギャルドな演出は一体何を意味したのだろうか。考えて見たものの思いつくところがなかった。これはまた数年後に観直さなきゃならないだろうな。他の小津映画を観直してみたら気が付くかもしれないから。
この場面の写真屋のオヤジは観ている最中には気が付かなかったが、後でキャスト表を見ると殿山泰司なのには驚いたなあ。