監督の今井正は「にごりえ」で繊細なこころの機微を描き出し、「真昼の暗黒」で冤罪事件の悲劇を怒りを込めて描き出した。いずれも私には大好きな映画で、何度観たか覚えていない。好きな映画監督の一人である。
ところがこの映画「由起子」の場合は、こころの機微も社会批判も中途半端になった。
ヒロイン由起子(津島恵子)が父母の消息や自分の出自を知る人を訪ねる旅から始まって、途中から愛する人(木村功)を訪ねる旅に変わってしまう。それでもやっと彼を探し当てたと思ったら、慕っている女性(野添ひとみ)が傍に居ることが分かって、由紀子は彼と別れる決心をしてエンドマークになる。なんだコレは!
私の知る限り井手俊郎はこんな中途半端な脚本を書く人ではなかった。
由起子は何を求めて旅を重ねるのだろう。映像に付き合わされた観客は不完全燃焼のまま放り出される。どうしてこんな映画になったんだろう。
菊田一夫原作のNHK連続ドラマの映画化であるとタイトルに記されている。すると時期的には日本中の老若男女を沸かせた人気ドラマ「君の名は」に続くラジオドラマだったのではないか。
「君の名は」レベルのメロドラマを期待して由起子の重なる不幸に涙しようとハンカチ持参でワクワクしながら映画館に駆けつけたら、社会構造を批判する映画を見せられることになる。あんみつを食べたいと店に入ったら、激辛ラーメンを出されるようなものだ。
この映画にはサイドストーリーがある。由紀子の高校時代が回想場面として挿入される。
浅草の興行を食い物にしている芸能プロデューサー(小沢栄)が跋扈していて、背後で暴力団と繋がっていて、しかも警察も馴れ合って共存している図式が描かれる。この権力関係に抵抗しようものなら浅草界隈では生きていけない。踊り子をしている由起子の友達・田鶴子(関千恵子)は恋人(木村功)と共に抵抗を試みたために地方のどさ回りに飛ばされて恋人と引き離されてしまう。恋人はのちに由起子の愛する人になってしまう。田鶴子は救われないままに、その後はドラマから消えてしまう。不完全燃焼はここにもある。
高校生だった由起子は友達の田鶴子を訪ねてこの界隈に出入りしていたことで不純異性交友を疑われる。それが事実誤認であったと分かっても、警察(成瀬昌彦)は学校長(中村伸郎)に謝罪などしないと言い切る。そのため由起子は退学処分になってしまう。この理不尽さ!
当時の社会構造の歪みを俎上に乗せる視点自体は悪くない(激辛ラーメンそのものは否定されるものではない!)。しかし、大衆はそういう映画を鑑賞するのにハンカチを持って駆けつけたりしなかったと思う。菊田一夫のメロドラマの看板を掲げて、その人気にあやかろうと海老で鯛を釣るような商魂が見え隠れする。社会批判の正義をそういう呼び込みをして見せるのはあまり気分の良い作り方ではないし、出来栄えも二兎を追って中途半端になった。