黒澤明はヒューマニストだけど、この作品の皮肉な視点には意表をつかれた
リメイク版を鑑賞するまえに本作品を復習しようと思った。
本作品は2時間23分というのは、あれっ、こんなに長い映画だったのかと改めて思った。
生気が抜けたようにただ役所の仕事をこなす渡辺勝治(志村喬)は妻に先立たれ、息子の光男(金子信雄)を育てる事だけに一生懸命で人生をすごしてきた。そんな彼が癌で余命いくばくもないと知る。どうしたらいいのか分からない彼だったが、市民の陳情にあった公園の建設に努力することで生きる意味を見出す。彼の役所でのあだ名は「ミイラ」であったけれど、今なら「ゾンビ」になるところであるが、これまでの彼の生き方を象徴している。
残された命をどうつかうか分かった渡辺にハッピーバースディの歌が重なり死んだような人生を変えて生まれ変わったのだと示す。それを示してからイキナリ渡辺の通夜になる。この構成も凄いと思う。生まれ変わったと思ったら、すぐに渡辺が死んだ場面に移行するというのは、今観ても斬新だなと思う。そうしてから通夜に集まった人々が渡辺について語る。
通常なら渡辺が公園建設をしてから通夜の場面にするところを捻った構成で、映画の感動を盛り上げているのはさすがに黒澤明監督の才気を感じさせる。
それだけでも人情劇として異色でもあるが、終わりはただのお涙頂戴にならないところも強烈だった。市民のおばさん連中が公園の建設を要望するが、役所のあちこちの部署をたらいまわしになるというお役所仕事を風刺している。それは公園を要望している土地に市会議員たちがやくざと共謀して歓楽街を作ろうとしているからでもある。そこへ渡辺の公園建設の手柄を助役(中村伸郎)が横取りしているところも描いている。渡辺が単に仕事をこなすだけ、波風を立てずにあたらずさわらずに過ごすことが役所の処世術であるということを描いているとこういうのって今も変わらないお役所の体質だと感じる。
ただのお涙頂戴でないのはこうした役所批判もあるが、人間の本質を批判しているところも他の人情ものとは異色である。
助役が通夜の席で公園建設は渡辺ひとりの功績じゃないと弁を振るう。新聞記者からも問われたとおり彼は渡辺の手柄を横取りしている。助役とその取り巻き連中が帰った後、渡辺の同僚たちがあいつらが渡辺の功績を横取りした、わたしたちは渡辺さんを見習い、彼の意思を継いで仕事をしようと決めた。市民の陳情をほっておかず、懸命に取り組むのだと。
ところがである。翌日になれば、今までどおりたらいまわし、あとまわしである。これは役所仕事ばかりを批判しているのではない。
人間の持っている負の面を描いているのだ。ある人物の行動を見て感銘を受けて、自分も触発、発奮する。だがそんなことは時とともに忘れるのが人間であると。通夜の席で酒を飲んで酔った勢いで心を改めようと言ったせいもあるかもしれない。こうやって発奮しようとも、何も役人ばかりではない、ほとんどの人間がこんなもんである、というシニカルな視点。これは痛かった。
私も映画を観て感激して発奮するところはある。だが、その気持ちを継続しているのかと言えばまあ大体は忘れる。だからこの映画の役人の変わらない仕事ぶりは他人事ではない。人は長年やってきたことをおいそれとは変えない。変わらない。まあ何かに触発されて、大志を抱いて進んでいけば、その業界でひとかどの人物だっただろう。そうしないから60代でもうだつの上がらない人物になっちゃったよ。
若い時にこの映画を初めて観た時は死んだように生きている男が人生を生きる意味を見出したことよりも、この人間の本質にたいしてのシニカルな視点がきつかった。きついよ、黒澤明監督。イタかったよ。