“脱獄映画にハズレなし”というわたくしが勝手に作っている映画ルールは、中川信夫「女死刑囚の脱獄」に関しては、あまりにご都合主義的な筋立てについて当て嵌まらないかに思え、じじつ、冒頭で許婚・和田桂之助がいながら愛人・寺島達夫と狩りに興じている高倉みゆきのことを、父の後妻である宮田文子の連れ子・三田泰子が嫉妬を含んだ眼で見つめる(三田は寺島に想いを寄せています)という、他愛ない三角関係が描かれたのち、高倉みゆきの父親・林寛が毒殺されると、高倉の化粧品から青酸化合物が発見されたという単純な理由で彼女が父親殺しの疑いで逮捕・起訴され、高倉自身はもちろん無罪を主張するものの、あれよあれよという間に裁判は進んで、高倉には尊属殺人の罪で死刑が言い渡されるという展開は、強引で呆れるほかありません。
獄中で知り合った若杉嘉津子に誘われて、同房の女二人が同性愛関係を持とうとしてイザコザを起こし、独房に連れられて行った結果、高倉みゆきが若杉と二人だけとなった夜、脱獄を実行に移すという筋立ても、ご都合主義という謗りを免れることはできないでしょう。
そして、別の房の女囚から入手した金属ヤスリを使っていとも容易く鉄格子を切り取り、シーツを結い合わせたロープを持って房内から抜け出して屋上に出て、都合の良いことに獄舎の建物の外側には備え付けの金属梯子がある上、建物から別の建物の屋上に移動する際には、ちょうど良い長さの渡し板が都合良く入手できるといった具合に、難なく脱獄が実現できてしまう脚本の杜撰さは、容易に批判できる代物でしょう。
しかし、夜の沈黙が支配する刑務所内で、二人の女性が静かに脱獄を果たそうとする様子を、多彩なキャメラアングルを駆使しつつ、的確な編集リズムを刻みながら描く中川信夫の画面作りにおいては、やはりルールは生きていたと言うべきでしょう。
盛岡の刑務所から脱獄を果たした高倉みゆきは、彼女が真犯人だと目している元婚約者・和田桂之助のアパート(高倉に面会するため盛岡に転勤しているという、都合の良い設定)を訪ねて彼を追及するものの、和田は犯行を否定し、本当の真犯人を掴まえるべく高倉の逃亡を助け、彼女を追いかける地元警察の眼を誤魔化して東京行きの列車に潜り込み、汽車のデッキ外にしがみつくという荒業を二人で実践してまでして東京行きを果たすという展開も、東京に来てみたら高倉が獄中で産んだ寺島達夫との間の子供は病死していたという展開も、その後高倉と和田は警察に捕まってしまうものの、事件を最初から捜査していた刑事・沼田曜一が高倉や和田の必死の訴えを聞くうちに真犯人は別にいるように思えた結果、今は高倉の義妹・三田泰子と恋人関係になっている寺島達夫が、実は三田の母である宮田文子とも関係を結んでいることを掴み、高倉が盛岡に送り返される時刻が迫る中、それより早く寺島・三田・宮田の3人から真実の証言を得るべく警官たちを総動員するという展開も、筋立てとしては観る者を納得させることはできません。高倉が盛岡に再び護送された後であっても、真犯人が見つかれば高倉は無罪釈放になるべきですから、時間に追われることにリアリティはないのです。
しかし、そんなふうな理屈はさておき、何やらドラマの解決に向けて時間的な制約が課せられるという状況を作り、映画に緊張感をもたらすことは、映画的には有効な手段たり得ており、ストーリーテラーとしての中川信夫の確かな腕前には感心させられるのでした。
大蔵貢の愛人として有名な高倉みゆきも、その美貌も含めて、サスペンス物語のヒロインとして及第点です。