どうすれば、これほどタガが緩んだ映画が出来るのか?
これが「勝利者」や「嵐を呼ぶ男」で石原裕次郎の人気を不動のものに高めた井上梅次の仕事なのか。
白坂依志夫は共同脚本の井上梅次に飲み込まれたか。それとも原作者メリメに飲み込まれたか。1958年当時、まだ彼は増村保造(暖流、巨人と玩具)、岡本喜八(結婚のすべて)、須川栄三(僕たちの失敗)、篠田正浩(燃ゆる若者たち)などと脂が乗り切った仕事をしていた頃のはずが、とんでもないダルいシナリオに仕上がげたものだ。
黛敏郎が井上梅次とタグを組んで、どんな相乗効果が生まれるかと密かに期待したのだが、この当時、市川崑、今村昌平、川島雄三、野村芳太郎、渋谷実、中村登と矢継ぎ早に聴かせたシャレた感覚がここには無い。メリメの「カルメン」ということで引き受けたのかもしれないが、ビゼーに挑もうとして、とんだドンキホーテになってしまった。台本を見てから引き受けるかどうかを考えるシステムは日本にはなかったのだろう。
安部徹や明智十三部らの刑事がキャバレーに踏み込んできてドアを叩くと、中にいた吉田輝雄と岡田茉莉子は恐れ慄(おのの)きながら抱き合ってそのドアを注視する。延々とドアを叩き、延々とドアを見つめるカットバックが重ねられる。刑事がそこまで迫っているんだ、ヒーロー、ヒロインは逃げるなり隠れるなり動きようがあるはずなのに、ただただドアを見つめるばかり。観ていて苛立つやら呆れるやら馬鹿らしくなるやら。
せめて、吹き替えなしの藤木孝の、生きの良い歌と踊りが見聞きできたのをよしとするか。