この物語はご都合主義で寄せ集めたコント集としてみれば、そこそこ笑えるシーンがある。ときどき気の抜けたビールみたいなコントも混じっていて、笑える気分に水を差されるところもある。
特にフランキー堺の劇中劇がサムイ。
フランキー堺は作品全体に監督のリズムがコントロールを効かせていると、そのリズムにうまく乗って演じられるコメディは絶妙の可笑しさが滲み出て作品全体を引き締める。
ところがこの映画は全体として一貫したリズムがない。行き当たりばったりの展開の中でフランキー堺は「自由奔放」に演じているよう見える。ところが実は、安宅の関における冨樫(森川信)との掛け合いでのコメディ部分では「計算」の行き届いたギャグを見せて笑いを取ろうとしている。「自由奔放」と「計算」と、どちらも隠しきれず、虚実皮膜の絶妙なリアリティを見失って、只々(ただただ)わざとらしくはしゃぎまくっている。だから、ウケを狙っているように見えて、観ているこちらが引いてしまってサブイボができる。
茶川一郎がフランキー堺と水谷良重のラブシーンの肝心な所で口出しするシーンで2回出てくる。やきもちを焼いて邪魔しているのかと思わせて引っくり返すギャグなのだが、こちらの方が、大笑いするほどではないが、笑える。茶川一郎にはウケを狙った媚(こび)がない。
三木のり平と八波むと志に演じさせる「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」はフランキーの「勧進帳」とは可笑しさの質の違いが大きすぎる。「与話情(よはなさけ)〜」ではオーソドックスなお手本を八波むと志が先に見せる。その上で、のり平が真似をしてお手本との微妙なズレを見せる。これで、元々の話を知らない人にものり平によるズレ具合がはっきり分かる仕掛けになっている。
これに対して、フランキー堺の弁慶は羽目を外してはしゃいでいる感じになって、ドタバタギャグの可笑しさを出そうとしている。
笑いにふた通りあることを見せているが、作りの細やかさや芸の味では「与話情〜」の方に軍牌をあげたい。