この映画は私にとってとても新鮮だった。以下その理由を4点述べる。
① 東映時代劇スターの頂点にある市川右太衛門が悪役(山内伊賀亮)を演じるのは本当に珍しい。この人が悪役を演じるのは寡聞にして「牢獄の花嫁」くらいしか記憶にない。まさに巨悪という感じで作品全体を引き締める。仁左衛門や吉右衛門が二木弾正を演じると「伽羅先代萩」の芝居全体が引き締まる面白さに通じる。
② これだけの悪役を主人公に配するなら、これを受けて立つ正義派は山村聰だけでは足りない。そこで河原崎長十郎久しぶりの登場となる。私にとっては、山中貞雄の「人情紙風船」、「河内山宗俊」、滝沢英輔の※「逢魔の辻」そして溝口健二の「元禄忠臣蔵」以来の出会いだから本当に久しぶりである(因みに戦後の何本かの独立プロ作品は未だ観ていない)。主人公に対峙する大岡越前を演じている。河原崎長一郎と親子共演を果たしているが、ドラマとしては顔を合わさない。
※ (因みに「逢魔の辻」はキネノートのデータには見当たらない。NHK大河ドラマ「三姉妹」の原作である。キネマ倶楽部が販売したビデオで観ている。是非データに加えて欲しい。この場を借りてお願いする。)
③ この映画、時代劇ではあるがチャンバラ映画ではない。この映画には私の記憶する限り、チャンバラシーンが全くない。チャンバラの始まる寸前まで目一杯溜めて、そこで切ってしまう。水島道太郎が大勢の捕り方を前にして槍を構えてジリジリ前に出るところで切ってしまうし、次のシーンで、右太衛門が右裃だけ脱いで抜刀し哄笑してカットになる。捕り方を前にしながら、チャンバラシーンを意図的にカットしてしまっている。それに続くシーンは瓦版売りの口上となってその後の顛末を観客に説明することで済ませる。
④ 叙情性を押さえ込んで展開してきたドラマはラストシーンの天竜川下りの船で、一瞬の叙情性を見せる。商人(坂本武)が娘(桜町弘子)の愛した男(天一坊:中村賀津雄)について世間の悪評と真逆の評価を口にすると、娘が人目を気にしてこれを小声でたしなめる。そこに一瞬の叙情性を見せたものの、すぐに、船が急流を下るロングショットに切り替わって「終」となる。観る者に惹き起こされた情緒は一瞬にして閉ざされてしまうので、なおさら余韻として観る者の内心に留め置かれる。計算された脚本(橋本忍)が見事である。