きわめてわかりやすい二項対立(A対B)の図式で描かれている。それぞれの相対する視点から戦争を仮想体験することで、戦争を知らない世代にも、戦争を知っている岡本監督の反戦思想が伝わっていくだろう。同時に、戦後75年を経た沖縄の「今」を理解するためにも最良のテキストになっている。
さて、二項対立である。
「日本vs.連合国」で当時の世界情勢を、「日本vs.アメリカ」で太平洋戦争末期の沖縄戦を俯瞰する。日本軍に目を向ければ、「大本営vs.第32軍」で本土と沖縄の立場、中央の戦略的沖縄観(本土防衛戦準備のための捨て石)が浮かび上がり、続いて沖縄防衛軍の第32軍内の「持久戦vs.総攻撃」という作戦対立から一枚岩でない内実が明らかになる。これはそれぞれの作戦を立案、主導する「冷静沈着で事務的な八原参謀vs.豪放磊落で喜怒哀楽がはっきりしている長参謀」という人物像でより鮮明に描かれる。
「軍人vs.民間人」の描き方も辛らつだ。お前たちを守ってやっているんだという傲慢な軍人は、自決を強制し、スパイ容疑で老人を射殺し、ガマからの避難者の退去を叫ぶ。着の身着のままで逃げまどい、あるいは軍属・義勇軍・従軍看護婦となって戦場に駆り出された傷つき死んでいく民間人。「ドキュメント映像vs.人間ドラマ」のメリハリのある映像表現の違いも見事な演出だ。随所に挟み込まれる特攻隊員ら戦没学生の遺書、ひめゆり部隊ら女子学生の集合写真。理不尽に死と向き合わされた彼ら、彼女らの無念の思いを、黙して語る記録。余談だが、『シン・ゴジラ』で対ゴジラ核攻撃を語るシーンでインサートする広島と長崎の惨状のモノクロ写真に、庵野監督の岡本監督と本作へのリスペクトを感じるのはぼくだけではないだろう。
そして、忘れてはならないのが、物語の中盤あたりから登場する戦災孤児の少女。戦場をさまようこの少女が、すでにこの世のものではない実際に生きている少女ではないことは想像に難くない。少女は死んでいった沖縄県民の霊魂でもあり、沖縄の地霊そのものでもあるのだろう。ラスト――拾い上げた水筒から水を飲む少女に、現代に続く困難な日々を生き抜いた沖縄県民のたくましさを見る。