韓国映画の鬼才ポン・ジュノ監督の作品では、よく底辺の生活を強いられる者同士が醜い足の引っ張り合いをする。
それは貧困だけでなく、あらゆる差別も同じ構図を持っているのだろう。
自分よりも劣っていると感じるものを貶めることによって自我を保とうとする。
人間とはやはりとても弱い生き物なのだ。
正直、被爆者が差別を受けているという事実にとても胸が締め付けられる思いがした。
原爆によって大切なものを奪われ、傷つけられただけでなく、根拠のないでまかせから病気が移ると遠ざけられた被爆者の人たち。
明らかに自分の娘が原爆病の症状であるにも関わらず、差別されることを怖れ、頑なに被爆者ではないことを主張し続ける光子の姿に寒気を感じた。
とにかく全編通して病的な暗さが漂い、心がずっしりと重くなるような作品だった。
戦争というものの残酷さを新たな視点で見せつけられたようだった。
そもそも被差別部落者と被爆者の対立という構図が、人間の根元的な愚かさと残酷さを浮き彫りにしている。
この映画の登場人物たちは、皆どこかに後ろぐらい過去を抱えている。
佐世保で医師をしている宇南がどこか自棄っぱちな印象を受けたのは、彼が被差別部落者であり、過去に少女を孕ませた挙げ句自殺に追いやってしまった負い目があったからだと分かる。
と、同時に自分が被爆者であることを認めない光子に、どうして被爆者であることに後ろめたさを感じなければならないのかと詰め寄った時の感情の高ぶりにも理解出来た。
被差別部落者の徳子が被爆者にレイプされたことで起こる争いは本当に不毛だ。
徳子は単身で自分を犯した男が住む海塔新田という被爆者の部落へ乗り込む。
しかし男は知らぬの一点張りで、男の父親も性悪女と徳子を決めつける。
徳子はそのまま引き下がるが、彼女の母親は怒りを押さえられずに男の元を訪れ、責任を取ってもらうように詰め寄る。
そして男の父親に部落出身であることを罵られた彼女は、お返しに被爆者に対する取り返しのつかない差別発言をしてしまう。
すると暗闇から彼女を目掛けて無数の石が飛んでくる。
彼女は投石を受けて血だらけになって命を落とす。
そして海塔新田を抜け出して、徳子の元に駆けつけようとした信夫を、今度は被差別部落の男たちが取り囲む。
差別を受ける者同士の不毛な争い。
信夫はそのまま部落を抜け出して、どこまでも走り続ける。
彼の苦悩など知るよしもなく、団地に住む若奥様は編み物をしながら、走り抜ける信夫を微笑みながら見守る。
彼が原爆によって破壊されたマリア像の頭部を拾い上げる回想シーンが印象的だった。
マリア像にはみるみるうちにケロイドが広がっていき、信夫はマリア像を思わず叩き落としてしまう。
ショッキングな映像の多い作品だが、檻の中に入れられた鶏をネズミが食い尽くすシーンと、そのネズミが炎に焼かれるシーンは、とても象徴的なのだろうが今は絶対に許されないと思った。