1970年に公開された本作は高度経済成長の真っ最中でその象徴的なイベントが大阪万博だった記憶が蘇る。
このことは本作の最後の場面で被差別部落と被爆者部落から逃げる青年が新しい高層団地の敷地内に逃げ込む姿を冷ややかな笑顔で眺める若い妊婦たちを描きながら、時代の流れを見つめる監督らの俯瞰した視線を感じる。
また冒頭、途中、最後と少しずつ出てくるねずみたちが1羽の鶏を食し、焼き殺されるシーンのギャップが鮮烈な印象を残す。
タイトルの地とは社会の底辺(この表現は好きではないが)で生きる人々を地面すれすれで生きるネズミに例えているそうだ。
だとするとそのネズミが焼き殺されつくされる描写はかなり人間に対する絶望的な見方あるいは愚かに行動する人間に対する皮肉を感じる。
あるいはネズミを日本人全体、鶏を中国(満州国)として占領するアメリカが焼き尽くす(原爆)と解釈できなくもない。
本作は長崎を舞台にした群像劇で、本作の抱えるテーマは数多く難しいものが多い。
よく言われるのは、母親が部落出身でかつ被爆者でもある主人公が若い時分に朝鮮部落の娘を妊娠させて責任を取ることもなく彼女を自殺に追いやってしまったことから複雑な心情を抱えていること、また共産党に属し活動している中で友人であり妻の元カレが山村でのオルグ活動で病死したことに力になれなかった後悔の念が妻との心情的なしこりとして残っている。
ただ主人公の本当の気持ちはその出自と被爆した遺伝の恐怖からくる苦悩を妻に告白できない(共有できない、理解されない)ことからの反動なのだろう。自らの良心があるほどその過去やレッド・パージからの逃避など苦悩し酒に溺れてしまう。
一方で被爆者部落の青年に強姦されるヒロイン(娘役の紀比呂子が初々しく美しい)が自らその青年の家に乗り込む姿は潔い。しかも彼女が被差別部落出身だから訴えたらばらすと言う強姦犯の青年の往生際の悪いことよ。
その青年の父親役の宇野重吉の色眼鏡をかけたうさん臭さが濃い。そしてその家に抗議に行った娘の母親役の北林谷栄との演技合戦が半端ない。
特に母親が被差別部落よりも被爆者部落の方が、放射能の影響による遺伝子変異による病気の発生で代々生じるから劣るかのように発言してしまう件は圧巻。
その発言が主たる原因であるかのように彼女は被爆者部落の者たちから無数の石を投げられ、血まみれになりながら絶命する。
この辺りの展開は残酷だがスピード感もあり圧倒的。
母親を巡っては夫が部落出身であるからと言って働く炭鉱でひどい陰口を言われ抗議した際に、反撃され自らが持っていたナイフ(皮を剥ぐ)で腹をケガしたことの事情の説明を求めた際に泣き寝入りするようあしらわれると悔しさで泣き崩れるシーンが痛々しい。
また、娘が原爆の後遺症らしき病で苦しんでいるのに自分は被曝していながらその評判が立つのを恐れた母親がしていないと貫く姿も痛々しい。奈良岡朋子が上手い。
また冒頭で強姦犯と間違えられる青年が、天主堂でのマリア像の首を破壊するシーン、原爆で壊れた天主堂を見ていられないと解体するシーンもある。
解体しなければ広島の原爆ドームのように反戦のモニュメントになったのにとも思った。
青年がキリシタンの末裔なのかわからないが、彼がこの戦争、原爆投下によって信仰の無力感に苛まれているのだろうかとも考えた。
過渡期的な作品かもしれないが、素晴らしいテキストたりうる秀作だと思う。