風と共に去りぬ

かぜとともにさりぬ|Gone With the Wind|----

風と共に去りぬ

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レビューの数

120

平均評点

80.4(754人)

観たひと

1169

観たいひと

91

基本情報▼ もっと見る▲ 閉じる

ジャンル ドラマ
製作国 アメリカ
製作年 1939
公開年月日 1952/9/4
上映時間 233分
製作会社 M・G・M映画
配給 MGM日本支社
レイティング 一般映画
カラー カラー/スタンダード
アスペクト比 スタンダード(1:1.37)
上映フォーマット
メディアタイプ フィルム
音声

スタッフ ▼ もっと見る▲ 閉じる

キャスト ▼ もっと見る▲ 閉じる

解説 ▼ もっと見る▲ 閉じる

「白昼の決闘」「ジェニーの肖像」などの製作者デイヴィッド・O・セルズニックが1939年に完成した長編テクニカラー作品(上映時間228分)で、ベストセラーになったマーガレット・ミッチェル原作小説の映画化。監督は「ジャンヌ・ダーク」のヴィクター・フレミング、脚本はシドニー・ハワードの担当。撮影は「テレヴィジョンの王様」のアーネスト・ホーラーで、レイ・レナハン(「白銀の嶺」)とウィルフリッド・M・クライン(「二人でお茶を」)が色彩撮影に協力している。作曲はマックス・スタイナー、美術監督はリール・ホイラーが当たっている。主演は「欲望という名の電車」のヴィヴィアン・リーと「栄光の星の下に」のクラーク・ゲイブルで、「女相続人」のオリヴィア・デ・ハヴィランド、レスリー・ハワード、イヴリン・キース(「千一夜物語」)、トーマス・ミッチェル(「夢見る少女」)、バーバラ・オニール(「扉の蔭の秘密」)、アン・ルザーフォード(「虹を掴む男」)、ジョージ・リーヴス、フレッド・クラインらが助演する。なおこの作品は1939年度アカデミー作品賞をはじめ監督、主演女優、助演女優、脚色、色彩撮影、美術監督、編集、サルバーグ記念、特別と10の賞を獲得した。

あらすじ ▼ もっと見る▲ 閉じる

前篇=1861年、南北戦争が始まろうとする直前。ジョージア州タラの大地主ジェラルド・オハラ(トーマス・ミッチェル)の長女スカーレット(ヴィヴィアン・リー)は、樫の木屋敷と呼ばれる同じ大地主ウィルクス家で明日開かれる野外宴会に、そこの嫡子で彼女の幼馴染みであるアシュリー(レスリー・ハワード)と彼の従妹メラニー(オロヴィア・デ・ハヴィランド)の婚約が発表されると聞いて心おだやかでなかった。激しい気性と美しさをあわせ持つスカーレットは、多くの青年の憧れの的であったが、彼女の心はアシュリーとの結婚をかたく決意していたのだ。宴会の当日スカーレットは想いのたけをアシュリーにぶちまけたが、彼の心は気立ての優しいメラニーのものだった。スカーレットはそこで、チャールズトン生まれの船長で素行の評判の良くないレット・バトラー(クラーク・ゲイブル)に会い、彼の臆面のない態度に激しい憎しみを感じながら、何か惹きつけられた。突然、戦争の開始が伝えられ、スカーレットは失恋の自棄からメラニーの兄チャールズの求婚を受け入れ結婚した。メラニーと結婚したアシュリーもチャールズも戦争に参加した。だがチャールズは戦争で病を得て死に、スカーレットは若い身を喪服に包む生活の味気なさからアトランタのメラニーの元へ行き、陸軍病院のバザーでレットと再会した。レットは強引に彼女に近付いてきた。戦況はその頃南軍に利なく、スカーレットとメラニーは看護婦として働いていたが、やがて、アトランタは北軍の接近に脅えた。スカーレットと生まれたばかりの子供を抱えたメラニーは、レットの御する馬車で故郷へと向かった。レットは途中ひとり戦線へ向かい、のこされた2人はやっとの思いでタラの地に着くが、すでに廃墟になって、北軍にすっかり蹂躪されたあとだった。後篇=戦争は南軍の敗北に終わった。捕虜になっていたアシュリーがかえって来てメラニーを喜ばせたが、スカーレットは再び彼に愛を告白してはねつけられた。タラは重税を課され、土地を守る決意を固めたスカーレットは、その頃北軍の営倉に捕らえられていたレットに金策を頼みに行ったが、断られた。彼女は妹スーレン(イヴリン・キース)の許婚フランクが事業に成功しているのを見て、欺いて彼と結婚し、事業を自分の手中に収めてアシュリーを仲間に引き入れ、唯金儲けだけに生きるようになった。フランクが死んで、スカーレットはレットと結婚し、娘ボニーを生んだが、まだアシュリーへの想いが断ち切れず、レットはもっぱらボニーへ愛情を注いだ。こうした結婚生活の不調和から、レットはボニーを連れロンドンへ行ったが、ボニーが母を慕うので再び戻ってきた。ところがボニーが落馬して死に、メラニーも病死してしまった。このためレットとスカーレットの結婚生活はまったく破れ、レットはチャールズトンへと去っていった。スカーレットはこのとき初めてレットを愛していたと気付くが、一番愛しているのはやはりタラの土地であった。彼女はタラに帰ってすべてを考え直そうと決心した。

キネマ旬報の記事 ▼ もっと見る▲ 閉じる

2011年5月上旬号

第二回 午前十時の映画祭:「風と共に去りぬ」「ドクトル・ジバゴ」

2010年1月上旬号

DVDがおもしろい!:DVDコレクション No.449 「風と共に去りぬ」

2004年12月上旬号

DVDコレクション :第174回 「風と共に去りぬ」

1994年7月上旬特別号

ビデオ:スペシャル・レポート 「風と共に去りぬ」50周年記念マスター発売

1972年6月下旬号

S・Bスペシャル ミュージカル2本:風と共に去りぬ

1967年4月下旬号

新作グラビア:風と共に去りぬ

1961年8月上旬号

旬報万年筆:復活した「風と共に去りぬ」

1952年10月下旬号

外国映画批評:風と共に去りぬ

1952年9月下旬号

「風と共に去りぬ」はいかに宣傳されたか:

1952年7月上旬夏季特別号

外国映画紹介:風と共に去りぬ

1952年4月下旬号

シナリオ:風と共に去りぬ(後篇) D・O・セルズニック製作 M・G・M映画

1952年4月上旬特別号

新作グラフィック:風と共に去りぬ

特別掲載シナリオ:風と共に去りぬ

2025/06/26

2025/07/03

100点

選択しない 
字幕


大発見、すごいぞ! なんて思ったのだが

ネタバレ

<はじめに>
本作品は“人種差別的”であるという批判があります。確かに作品中には主人公の家の使用人(奴隷)などの黒人を意のままに扱う、あるいは厳しい口調で責め立てるなど差別的な場面が出てきます。
この問題が大きくクローズアップされたのは2020年6月にアメリカの大手配信サービス(HBO)が人種差別を理由に一時的に配信を停止した時でした。(その後、本編開始前に注意書きを入れて再開されています。)
今回の上映でも本編開始前に注意書きが出ました。正確には覚えていませんが、作品に人種差別の描写があること、だからといって封印するのではなく歴史や事実はちゃんと見るべきだという内容で、僕自身はいい文章だと感じました。
前回見た時(2019年6月)は人種差別を意識せずに見ていましたが、今回はその辺りも意識しながら見ました。感想には全然出てきませんけど… (^^;
*****
19世紀半ば、米国南部で生まれ育った勝ち気なお嬢様が、南北戦争の敗北でふりかかる困難に立ち向かい自らの手で生きていく決意する。
1939年の作品だが、日本公開は1952年。つまり戦前の作品が戦後に公開された。戦前は“時局にそぐわない/反戦的”とされたようで政府が公開を許可しなかった。戦後に公開されたときにはロングランの大ヒットになった。
というような話は前々から何となく知っていて、大ヒットの理由はそれまでの(たぶん戦前から続く)評判や話題などの下地があったからだろうとそんなふうに想像していた。
ところが、今回見て新たに気付いたことがあった。
主人公スカーレットは南部の人間、つまり南北戦争で敗れた側にいる。北軍から全てを奪われた彼女は貧しさの中ならはい上がっていく。ときには妹の婚約者で商才を見せ始めた若者をたぶらかして自分の夫とすることもいとわない。
彼女の敗戦した側という立場が、1952年の戦後の日本に重なって見えたのではないか。戦争に負け、価値観がひっくり返り、何もかも失ったが、それでも立ち上がっていく。そんなスカーレットの姿に戦後日本の人たちは自分たちを見たのではないか。
今回は見ているうちにそんな思いが湧いてきた…。
これは新しい視点だ、大発見、すごいぞ! なんて思ったのだが、帰宅して「午前十時の映画祭15」のプログラムの後段に時代と今回上映作品の関わりを考察した解説があって、しっかり指摘されていた。凡人が思いつくようなことは世間で既に誰かが気付いているってことか。
そんな個人的な舞い上がりと残念はさておき、壮大なメロドラマでありながら、ひとりの女性の成長と自立を描いている本作品はいつ見ても色あせない。

2025/06/14

2025/06/27

85点

映画館/東京都/TOHOシネマズ日本橋 
字幕


アメリカ映画らしさに満ちた歴史に残る超大作

私は17歳の頃、映画好きの友達4人と一緒に劇場に本作を観に行った。

その頃の私はすでにクラシック映画にかぶれていて、NHK世界名画劇場で「嘆きのテレーズ」とか「真昼の決闘」とか、あるいは「天井桟敷の人々」とか「西部戦線異常なし」とか、はたまた「死刑台のエレベーター」とか「禁じられた遊び」といった、昔の映画をかなり観るようになっていた。

なので大変期待して劇場に足を運んだ本作だったのだが、私的にはスカーレット・オハラのキャラクターがどうしても好きになれず、また映画的に深みのある演出がされているとも思えず、テーマとしてもありきたりな印象の、大変苦痛な4時間であった。

だが昔観てイマイチだなと思っても、評価の高い作品を後年観直すと、その評価を改めるということはザラにある。

だから本作についても、いつか観直す必要があるかもな、とは思っていた。

それから38年。

先日、午前10時の映画祭でやっと本作を再見した。

再見した印象としては、やはり本作は単なる通俗ハリウッド映画でしかなかったし、スカーレット・オハラのキャラクターはどうしても好きになれないし、また映画的に深みのある表現がされている作品とも思わなかった。 

そこの印象は全く変わらなかったのだが、38年前と唯一違った点は、この4時間が退屈でなく、なぜか大変面白く観る事ができてしまったことである。

本作はマーガレット・ミッチェルの有名な文学作品の映画化ではあるが、本作の魅力は文芸映画という雰囲気からは程遠い、通俗的で下世話でドロドロした、それでいてカラッとしたエネルギッシュな映画に仕上がっている点にある。

その意味では、大川おかかパパさんの「壮大な昼メロ」というレビューが大変的を射ている。

本作が、当時ハリウッドの大プロデューサーであったデビッド・O・セルズニックの意向に沿って演出されたことは有名である。

そして、そのことに対する反動(?)ではないかと思われるエピソードにも本作はこと欠かない。

例えば、名匠ジョージ・キューカー監督の下で始まった撮影だが、セルズニックはキューカーの格調高い演出を気に入らずにヴィクター・フレミングに交代したとか。

その一方でヴィヴィアン・リーやオリヴィア・デ・ハヴィランドらがフレミングの演出を気に入らず、監督交代後もキューカーに密かに演技指導を仰いでいたとか。

そんな監督冥利に尽きないヴィクター・フレミングが心労で倒れてしまい、サム・ウッドが後を引き継いだとか。

にも関わらず単独で監督のクレジットを得たフレミングはアカデミー監督賞にノミネートされるが「あれはセルズニックの作品である」と言って受賞式を欠席したとか。

しかもその上、受賞してしまうとか。

まさに本作の「監督の意向より興行的価値を優先したプロデューサー主導の映画」「通俗的かつ下世話で壮大な昼メロ」いう印象にふさわしいエピソードばかりで、もはや痛快な作品に仕上がっているとさえ言える。

そんな映画が、映画史上最大の観客動員数を記録し、映画史上不朽の名作と評価されているのだから、映画というのは本当に面白いものである。

なお私はかなりのアカデミー賞おたくで、歴代の受賞作・受賞者の中でベストなのはどの作品か、どの受賞者かということをよく考える。

私が考えている歴代の「アカデミー主演女優賞」受賞者の中で最高の受賞者は、本作のヴィヴィアン・リーである。

私はスカーレット・オハラのキャラは大嫌いだが、本作のヴィヴィアン・リーの演技は最高だと思っている。

それはこの映画をつまらないと思った昔から、38年ぶりに再見した今に至るまで変わらない。

スカーレット・オハラはどうしても好きになれないのだが、しかしそのような女性を彼女は見事に演じている。

本作におけるヴィヴィアン・リーの演技は大変素晴らしい。最高である。

また本作のクラーク・ゲイブルも素晴らしすぎる。まさにハリウッドが絶頂期であった頃の大スターの魅力がいかんなく発揮されている。

ゲイブルは「或る夜の出来事」ですでにオスカーを受賞しているが、むしろ本作のほうがいい。

この年の主演男優賞は「チップス先生さようなら」のロバート・ドーナットで、彼も悪くはなかったのだが、私の中では圧倒的にゲイブルのほうが上だと思っている。

38年前に観た10代の頃は超絶退屈で、ずっと大嫌いな映画だったのだが、今嫌いかと言われたらこの映画はもはや嫌いではない。むしろ好きになっているかもしれないw

ラストシーンなど、とても薄っぺらいと思うのだが、しかし何故だか鳥肌立つほど感動してしまった自分がいる。

マックス・スタイナーのあの名曲と、ヴィヴィアン・リーの名演のおかげかもしれないのだがw

本作は芸術的な観点で言えば大した作品ではない、と今でも思っているのだが、しかしアメリカ映画がその底力、大衆を魅了する力を存分に発揮して、人間ドラマやメロドラマさえも壮大なスペクタクルのように描いて面白く見せてしまった、まさにアメリカ映画らしい超大作である。

そのような意味でもやはり本作は映画史の歴史に残る、特筆すべき作品の一本と言っていいのではないかと思う。

2025/06/14

2025/06/14

83点

映画館/東京都/グランドシネマサンシャイン池袋 
字幕


まさかのベルに感情移入

久しぶりの鑑賞。kinenoteの記録で確認したら6年ぶりだった。
何度も観ている映画ではあるんだが、観る年齢なのかその時に置かれている状況からなのか感じる印象が観るたびに違うので何度でも楽しめる。

前回の鑑賞ではメラニーがどんどん好きになる、というよう感想を残していたが、今回インターミッションまでは流石にそこまでではないかな、と感じていた。ただ、その反動なのか後半はメラニーの優しさに前回以上に泣かされてしまったよ。
見方によっては女性に嫌われそうな「あざとさ」だなぁ…とも思わないでもなかったが、それを越える何かを感じるんだよなぁ。結局みんながメラニーを好きになるだけでなく、敬意を払うようになる。

とはいえ私はメラニーのようには振る舞えない。憧れることも目指すこともない。もっと私の内心は醜いからね。
それもあってか今回は何故か売春宿を営むベルに共感してしまっていた。
メラニー本人に、貴女は素敵だ、でも私なんかと会わない方が良いと伝えるために馬車を走らせ、バトラーにそれなりの想いを寄せているにも関わらず、バトラーをサポートする、多くを求めない女性…。

まさかベルに感情移入するとは自分でも思わなかっただけに、今回の鑑賞は新鮮でした。

またいつか観るだろう。
今度はどんな印象を与えてくれるだろうか…。

2025/06/04

2025/06/04

70点

テレビ/無料放送/NHK BSプレミアム 
字幕


赤い虚無と不吉

字幕で概況が語られると,時間と場所が大きく移り変わる.人物や室内や屋外を照らす光は赤っぽく感じられる.奇声をあげている者たちがいる.そして戦争が始まっている.
情熱が過ぎるスカーレット(ヴィヴィアン・リー)は,やがて風変わりな未亡人となる.見せかけの喪服を着て,夫の死をまるで悲しんでいないままにダンスに興じている.彼女のこの情熱が不吉であって,彼女の周りの人々は次々と消えていく.彼女は最初の夫の死と同じように,突飛な反応をするものの,それほど死には動じていない.が,徐々に周囲の死が彼女の心を蝕んでいくようにも見える.
レット(クラーク・ゲーブル)は,戦争の英雄となりながらシニカルな態度を貫く.ホールには大勢の紳士淑女が集まっており,彼の誘いでスカーレットは例の喪服で踊る事になる.アトランタで,そこは教会なのか病院なのかベッドには傷ついた者たちが寝て,苦しみ,叫んでもいる.キリスト像が描かれたステンドグラスは砲撃で一部が割れている.
スカーレットは奴隷のメイド,プリシー(バタフライ・マックイーン)を殴りつけ,産婆の役をさせている.いよいよ夥しい数の戦傷者は,赤い土の上に並んで寝ている.砲撃の音が著しい.ガラスが割れる音がする.あたりが炎に包まれると画面の赤味が増している.建物は燃えながら崩れ落ちていく.
大義について語られもする.敗残兵たちも溢れて行進している.力つきその場に膝をついてしまう者もいる.倒れた者たちを乗り越えながらスカーレットの馬車は,故郷タラの地のオークス屋敷を目指して進んでいく.彼女は屋敷で母の死体を目にし,悲鳴をあげる.家には,兄弟たちも病気となって見えなくなり,父も耄碌しているが,マミー(ハティー・マクダニエル )という女性の奴隷が相変わらず元気でいる.メラニーは看病されながら,嘘も上手くつき,悪くなっている.スカーレットが屋敷に侵入してきた北軍の脱走兵の顔面を撃ち抜くと快哉を叫んでいる.父はタラの土地を奪いにやってきた北軍の仇を見て,突然,馬で暴走を始め,落馬して死ぬ.スカーレットは,経済的な理由もあって再び結婚し,製材の事業を切り盛りしているが,また夫が死ぬ.
ニューオーリンズやロンドンといった土地にも舞台は移るが,やはり故郷タラにキャメラは戻ってくる.大酒を飲むのはスカーレットだけではない,レットは酔っ払ってスカーレットの頭を掴み,クルミのように握りつぶそうと想像する.
彼女の情熱は,南部的な情熱で,それは前近代的な精神とも言えるのかもしれない.北部が象徴する近代によって彼女は追い詰められていく.彼女の周囲の死は,前近代の死でもあるのだろう.こうした状況にあって,彼女の希望は虚無的にも見えている.

2025/06/02

2025/06/02

75点

映画館/神奈川県/TOHOシネマズららぽーと横浜 


タラがある

もう、これで観るのはやめよう。と前回観たときに思っていたんだが、もしかしたら面白さが分かるかもしれないと思って

これが最後と背筋を伸ばして観た。

結果

今まで見た中では一番面白く観た。

そう、面白く

スカーレットの自分大好きな生き方、根性の座った生き方を見て、素直に笑ってしまったんだな。

どんな困難があっても、しぶとく生き続ける

大好きな男が結婚しても、決して諦めない。
財産や家を失っても、必死に生き抜く
娘を失っても
大事な友人を失っても、生き続ける
最後、実は大好きだった旦那に別れを告げられても

「そうだ、私にはタラがある」

と一瞬で立ち直り、タラのテーマで、あっさり映画は終わる

輝かしい歴史だけが風と共に去るのではない
不幸や苦難や挫折も風と共に去りぬ なのだな

はい、これで最後にします

2025/05/31

2025/05/31

-点

映画館/東京都/イオンシネマ多摩センター 
字幕


我が心のジョージア

「いつの日も明日は明日の風が吹く」

午前十時の映画祭15にて鑑賞。
我が生涯第3位(途中までは1位だった)の本作が、今後もこの地位を明け渡すことはないだろう。
13歳で初めて全編鑑賞した時の達成感は今でも忘れない。以来、何度も観てきたし台詞も粗方覚えている。にも関わらず何故今更スクリーンで観るのか?答えはただひとつ、そこに「風と共に去りぬ」があるからである。
午前十時の映画祭15がラインナップを投票で決めると発表した際、僕は真っ先に本作に票を入れた。むしろ焦ってさえいた。何度も観た作品だが劇場で観たことがない。加えて昨今の多様性の風潮からすれば、本作は真っ先に批判の矢面に立たされる作品であり未来永劫劇場で上映されなくなるかもしれない。そんな焦りがあったからラストチャンスのつもりで票を入れた。
幸いなことにラインナップに滑り込み、そしてようやく念願叶った。開始早々のジョージアの夕陽をバックにタイトルが横すべりし、「タラのテーマ」が鳴り響くシークエンスだけでもう涙目。4時間近い上映時間があっという間だった。
奴隷制度、そして南北戦争という日本人には馴染みの薄い題材ながら、本作が日本人に与えた影響は計り知れない。日本人を最も絶望させ、そして希望を与えた作品と言っていい。アメリカ公開の2年後に始まった太平洋戦争当初、向かう所敵なしだった日本軍は各地で本作のフィルムを押収した。フィルムを観た人々が口を揃えて言ったこと、それは「こんな映画を作る国と戦争をしても勝てるわけがない」だった。やがて日本は敗戦を迎え、1952年になってようやく日本でも一般公開となり、以来多くの観客が劇場に足を運んだ。戦争で荒れ果てたタラで、スカーレット・オハラ(演:ヴィヴィアン・リー)が朝日に向かって「二度と飢えには負けない」というシーンは、当時の日本人の支えとなった。はっきり言って、スカーレットはゲスの極み乙女だ。自分の目的のためなら手段を選ばないし、仮に自分の目の前にいたら本来であれば大嫌いになるのが自然である。しかし不思議と彼女のことは嫌いになれない。彼女がすることは不思議と許せてしまう。彼女は狡い、しかしそれ以上に行動できるところに僕は強さと憧れすら抱いてしまうのである。レット・バトラー(演:クラーク・ゲーブル)との関係も、擁護をさせてもらうならば彼女たちふたりきりであればうまくいったのではないかと思う。或いは結婚ではなく業務提携だったならば。しかし時には優しさすら彼女たちの邪魔になったがために結局すれ違いのまま終わってしまったのは残念でならない(個人的にはボニーですらふたりの関係をおかしくしてしまったと思っている)。
書きたいことはいくらでもあるし、原稿用紙をいくら渡されても足りないというのが本音なのだが、兎にも角にもスカーレット・オハラという存在は自分にとっては永遠に憧れであるし、いつでも心の片隅に留めておきたい存在なのでえる。
本作の製作は混乱を極めた。元々がベストセラー小説の映画化という経緯もあり、監督は二度も交代、スカーレット役は全米でオーディションを行っても決まらず、キャスト未定のまま撮影開始、さらには台詞の表現やキャストの起用を巡って製作費の裏で罰金や課徴金も多く課された。それでも本作が今日まで不滅の存在たり得ているのは、スカーレット以上に強情なプロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックによるところが大きい。製作当時は相当嫌われたらしいが、これだけの作品を遺してくれたことにただただ感謝したい。
明日もまた別の作品を劇場で観る予定だが、果たしてこの余韻を引きずらずに行けるだろうか...考えるだけで頭が痛くなる。まあいい、明日のことは明日考えよう。