国立映画アーカイブで開催中の森田芳光監督展を訪れ、何度も観たこの映画を改めて確認した。表面的にはコミカルに描かれているが、細部を見返すと、1980年代の教育社会を先取りした鋭い視点が随所に散りばめられていることに気づく。
映画では、兄・慎一の態度の変化がラストの食卓シーンで抽象化され、象徴的に描かれる。弟の合格祝いの席で、慎一は父親に反発するが、弟・茂之はほとんど無言だ。この食卓の対立は、父と長男慎一の直接対決であり、家庭という閉じた舞台の不条理さを浮かび上がらせる。
弟が土屋の妨害を乗り越え、家庭教師・吉本の協力を得て受験に成功する過程が中心に描かれるが、実は慎一の存在こそドラマの重要な軸である。彼が同級生の家に遊びに行っても他の男がいてプレゼントを渡せない場面などは、家庭内で自分が顧みられない疎外感を象徴する。父も母も、茂之の勉強に熱中するあまり慎一には関心を向けず、家族内の断絶を示す。
吉本は時代そのものを象徴するキャラクターだ。利益のためだけに家庭に現れ、目的を達成すると家族を破壊して去ってゆく。ゴミを片付ける家族の様子は、まるで戦後処理のようでもある。森田監督自身が「吉本はゴジラ」と語ったように、管理社会や受験戦争、没個性・画一化された社会の象徴として吉本は存在し、家庭に成功という果実をもたらすと同時に破壊も残す。
家族は互いのことを見ていない。父親の目玉焼き、茂之の「土屋が私立に行くことになった」という報告に対する母親の無関心など、誰も他人に興味を持たない。家族とは、単に「ゲーム」を進行しているだけなのだ。
ラストでヘリコプターの騒音にも関わらず昼寝してしまう家族の姿は、無関心で麻痺した現実を象徴する。この映画は、コミカルでありながら森田監督の問題意識の高さを今も力強く示している。