最初は銀四郎の役は松田優作にオファーしたらしい。松田がこれは自分の役じゃないな、と断ったという。それは正解だな、と思う。松田がやるとスターが大部屋俳優をいじめるというのが、シャレにならない。彼は聡明な俳優だと思う。
つかこうへいが松田をキャスティングするというのを血相抱えて、彼をキャスティングにするよりもうちの風間杜夫と平田満を銀四郎とヤスにしてくれ、そうしたら松竹の看板女優・松坂慶子が映えるだろう、松田優作では彼女が霞むよ、といって納得させたのだとか。
私はこの映画は好きである。深作欣二監督テンポの良い演出で面白く観た。だが、スターがお付きの大部屋俳優をいじめにいじめるというこの体育会系の悪しき慣習は大嫌いだ。運動部における先輩・後輩の構図も唾棄すべきものだ。自分の立場が上だからって、弱いものいじめはよろしくない。これが昭和の闇だよなあ。戦時中における上官が部下に対しての拳固やビンタをくらわすのをしごきだと称しているのもそうである。
こういうのをよし、としているのでこの映画は面白かったものの、嫌いでもある。この感覚は原作のつかこうへいと深作欣二監督には当たり前のものだったのだろう。ヤスが小夏に銀四郎の自分に対するあつかいに不満を爆発させるところは、我慢に我慢を重ねた彼の本音の発露だと思うが、その後階段落ちの前に煙草の火を銀四郎にさせる。銀四郎はいい加減にしろとヤスを殴る。するとヤスは笑顔を見せて元の銀ちゃんに戻ったという。なんだこれは?ヤスのMぶりはなんとも不気味だ。ホモセクシュアルと体育会系の歪んだ感情が見えて、私には気持ち悪い関係にしか思えない。本作はコメディ調で撮っているから、それもシャレに見えるのが救い。
それと深作監督もアクションが得意であるが、彼も泣かせを入れて湿っぽく演出するのもあまり好かない。本作でも時々挟んでいくので、ここの湿っぽさは好みではない。
ラスト場面でも階段落ちで死んだのかと思ったヤスが小夏の産んだ赤ん坊を抱いて、彼女に見せるというハッピーエンドも湿っぽいなあ、ラストをこの人情劇で終わらせるのかと思った。ところが「はい、カット」という声が響き、セットの壁が外され、出演者とスタッフが一同に介して、テーマソング「蒲田行進曲」が流れてお終いになる。映画の終わりはこういう風にスカッと終わらなきゃあね。
この映画は松竹と角川映画の製作である。それなのに東映京都撮影所が舞台になっているのは何故か。角川春樹は階段落ちもあるので、東映へ話を持って行ったが断られたという。それで松竹が承知してくれたという。ところが、深作監督は階段落ちがあるので時代劇なら東映の撮影所が良いと言った。それならと角川春樹は東映に撮影所を貸してくれと言った。そしてそれを岡田茂社長は承知したのである。
これが映画の全盛期なら無茶苦茶な話である。だが、映画の体制が崩れて五社協定もなくなって、邦画の衰退ぶりを象徴する時代だった。撮影所を貸すことで東映と松竹の共同制作になった。
そして角川春樹の当時の勢いも象徴している。角川が東宝で第一作「犬神家の一族」を発表したときは、本屋が映画を作れるわけがない、と映画業界は冷ややかだった。ところがこれが大ヒットして、角川映画は破竹の勢いとなる。それが衰弱した邦画のカンフル剤となった。東映も角川春樹に説得されたのも、当時の角川映画にメジャーの映画会社が敵わなかったということだ。それなら最初から東映はこの映画化を承知すればよかったのに、ということになるだろう。
今回観直してみて先ごろ訃報を聞いた高見知佳が出ているのにはちょっとしんみりした。また萩原流行も出ていたんだねえ。昔の映画を見ると、あの人がこんなところに、というのがあるけど、それも楽しみのひとつになるだろう。