美しき諍い女

うつくしきいさかいめ|La Belle noiseuse|La Belle noiseuse

美しき諍い女

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レビューの数

35

平均評点

71.4(174人)

観たひと

287

観たいひと

36

基本情報▼ もっと見る▲ 閉じる

ジャンル ドラマ
製作国 フランス
製作年 1991
公開年月日 1992/5/23
上映時間 238分
製作会社 ピエール・グリーズ・プロ
配給 コムストック
レイティング 一般映画
カラー カラー/スタンダード
アスペクト比 スタンダード(1:1.37)
上映フォーマット 35mm
メディアタイプ フィルム
音声 モノラル

スタッフ ▼ もっと見る▲ 閉じる

キャスト ▼ もっと見る▲ 閉じる

解説 ▼ もっと見る▲ 閉じる

「美しき諍い女」と題する絵を完成させようとする画家とモデル、妻や恋人たちをめぐる葛藤のドラマ。オレノ・ド・バルザックの短編『知られざる傑作』を自由に脚色した「彼女たちの舞台」のジャック・リヴェット監督・脚本作品で、エグゼクティヴ・プロデューサーはマルティーヌ・マリニャック、共同脚本はパスカル・ボニツェールとクリスティーヌ・ロラン、撮影は「ピストルと少年」のウィリアム・ルプシャンスキーが担当し、音楽はストラヴィンスキー作曲のバレエ音楽「アゴン」などを使用。91年カンヌ映画祭グランプリ91受賞。

あらすじ ▼ もっと見る▲ 閉じる

画商ポルビュス(ジル・アルボナ)は彼の旧友でかつての恋仇だったフレンフォーフェル(ミシェル・ピッコリ)の邸宅に新進画家ニコラ(ダヴィッド・ブルツタイン)とその恋人マリアンヌ(エマニュエル・ベアール)を招待した。フレンフォーフェルは10年ほど前、妻のリズ(ジェーン・バーキン)をモデルに描いた自らの最も野心的な未完の傑作「美しき諍い女」を中断して以来、絵を描いていなかった。「美しき諍い女」とは17世紀に天外な人生を送った高級娼婦カトリーヌ・レスコーのことで、フレンフォーフェルは彼女のことを本で読み、彼女を描こうと試みたのであった。ポルビュスの計らいでニコラとマリアンヌに出会ったフレンフォーフェルは、マリアンヌをモデルにその最高傑作を完成させる意欲を奮い起こした。最初はモデルになることを嫌がったマリアンヌは、ニコラの薦めもあって5日間で完成させることを条件にしぶしぶ了承する。だがフレンフォーフェルの要求は彼女の考える以上に苛酷なもので、肉体を過度に酷使する様々なポーズを要求され、さらには彼女の内面の感情そのものをさらけ出すことを求められる。だが、フレンフォーフェルは描き続けるうちに自信をなくしはじめ、逆にマリアンヌが挑発して描かせるようにもなっていく。画家とモデル、2人の緊張関係は妻のリズやニコラを含めた2組のカップル全体に微妙な緊張をもたらし、ニコラのもとにやって来た妹ジュリアンヌ(マリアンヌ・ドニクール)も加わりさらに拍車がかかる。やがて長い闘いの果てにフレンフォーフェルはついに絵を完成させるが、誰の目にも触れさせないように壁の中に埋め込んでしまい、代わりの絵を一気に描き上げた。真の「美しき諍い女」を見たのはフレンフォーフェル以外には、アトリエを覗いたリズだけであった。次の日、代わりの「美しき諍い女」のお披露目が行われた。緊張感も和らぎ、2組のカップルにポルビュス、ジュリアンヌも加わり祝いのワインが開けられた。それぞれの思いを永遠に胸に秘めながら…… 。

キネマ旬報の記事 ▼ もっと見る▲ 閉じる

2013年3月上旬号

MOVIE at HOME お家でDVD & Blu-Layを:DVDコレクション 「美しき諍い女【無修正版】」

1992年9月下旬号

KINEJUN CRITIQUE:美しき諍い女/ディヴェルティメント

1992年8月下旬号

上半期決算特集 映画をめぐる話題のコラム集:「美しき諍い女」の公開によってヘア修正はどう変わっていくか

1992年8月上旬号

外国映画紹介:美しき諍い女

1992年7月下旬号

外国映画批評:美しき諍い女

1992年5月上旬号

グラビア《Coming Attractions》(新作紹介):美しき諍い女

特集 美しき諍い女:作家論

特集 美しき諍い女:作品論

2023/07/17

2023/08/14

80点

選択しない 


画家とモデルのバトル

ネタバレ

 「彼女たちの舞台」の時もそうだったのだけど、あの映画も舞台稽古の詳細をご丁寧に見せさえしなければ(つまりカットすれば)随分と短い尺に収まっただろう。それと同じことが本作の絵画製作シーンにも言える。実在の画家の絵筆による描き込みを長回しで丁寧に撮っている。まるで絵画教室の教習用ビデオを見せられている感じ。でも監督にとってはこのアプローチが必然だったのだろう。創作の現場を直に見せることがなによりも重要であり、また目的でもあったように思えた。
 画家(ミシェル・ピコリ)はモデルの外見などにはハナから興味はなくその内面をキャンパスに描こうとしている(ように思えた)。モデルとなるマリアンヌやその恋人ニコラ、さらに元モデルであり今や画家の妻に収まっているリズ(ジェーン・バーキン)らはそういう画家の芸術的アプローチを取り違えているように思えた。いやリズはかつてのモデルの経験からもその過酷な現実(自分の本性を暴かれるという事実)に気づいているようだったが。
 ニコラに至ってはマリアンヌと画家との関係に嫉妬を抱くだけのつまらない男にしか描かれていない。彼がラストあっさりマリアンヌから振られてしまうのも至極もっともなのだった。
 そうは言っても実際の制作現場はかなり挑発的である。マリアンヌ役のエマニュアル・ベアールが美しい肢体を惜しげもなく晒し、しかも画家の要求する大胆なポーズを淡々とこなしている。最初は確かにそこにエロティックな情感を感じることができたけれど、キャンバスとモデルをカットバックで交互に見せていくうちに次第にそんな情感も失せてきてしまう。そのうちカメラはモデルよりもキャンバスだけを捉えるようになる。
 画家とモデルの関係も前半のいいなりから徐々にモデルの方が主導権を握っていく。その挑発に画家は何か閃いたのだろう。俄然絵筆に力が入り一気に完成させる。しかしそれは我々には披露されない。「知られざる傑作」として秘匿されたままの方が有り難みも増すということであろうか。
 かつてのリズの絵を消して急ごしらえした絵の方を画商に見せる。「傑作だ」と呟く画商が何だか滑稽だった。
 画家とモデル、このふたりの駆け引きが何だかスリリングであり、この長尺な映画を最後まで見せる原動力になっていたような気がする。

2023/06/25

2023/07/07

78点

選択しない 
字幕


芸術が産まれる瞬間、産まれない瞬間

『美しき諍い女』(La Belle Noiseuse)1991 フランス

「わたしの身体は活動的になった。もちろん完全に拒否する瞬間もあった。自分が物になった様に感じたから。

私は『女体』というイメージから逃がれようとした。特にモデルというもののイメージを変えたいと思った。

この絵はペアで描かれるべきだと思った。画家とこの女性の間には二つの眼差しが衝突している。彼女は彼を見て彼を挑発する。そして彼女は彼を捕まえて離さない」(エマニュエル・べアール)IMDB

この主演女優のコメントに尽きる。

原題La Belle Noiseuse(美しい諍い女)は英語だとThe beautifll provocateuer(美しい挑発する女)が相応しいらしい。(IMDB)

インスピレーションを失った老いた画家と元モデルの妻。芸術愛好家に連れられて、老画家を尊敬する若者が魅力的な恋人と訪れる。若者は恋人をモデルとして差し出す。

オノレ・ド・バルザックの原作『知られざる傑作』と共通しているのは設定と登場人物のみ。

原作では老画家が女性をモデルに絵を描く場面はない。

映画は老画家が女性を描く場面が大部分。(エマニュエル・べアールは映画の70%で衣服を身につけていない)

プロの画家の手が何枚も何枚も絵を描く。画家はポーズを何回も何回も変えて描く。

画家がモデルに指示をしてモデルがそれに従う。その様に始まった2人の関係は逆転していく。

完成した絵は原作の題名の様に「知られざる傑作」になりモデルとして奪われ続けていた女性は「美しき挑発者」になってアトリエを立ち去る。

芸術が産まれる瞬間、産まれない瞬間が描かれる。観客は画家のアトリエに透明人間になったかの様に立ち会い続ける。息が詰まる様な時間。

しかし4時間半は長い。

2023/04/15

2023/04/15

98点

テレビ/有料放送/IMAGICA BS 
字幕


破滅と救済

画家の老紳士が若い女性にモデルを申し込む。

画家とモデルが共に描画を進めていくうちに、お互いに葛藤を抱えて破滅へと導かれていく様が描かれている。最後にはどうなるか観てのお楽しみだが、これほど優しい結末は考えつかなかった。ミシェル・ピコリの徹底された、絵画への準備とデッサン力、エマニュエル・ベアールの体や表情から伝わる緊張感と昂揚ぶり、そして絶望に覆われた完成。デッサンの際のカットの精緻なことこの上ない。

上映時間が4時間と非常に長尺だが、デッサンごとに2人の真剣さと疲弊のそれぞれが水増しされてゆく描写においておよそ、時間を感じさせないものがあった。

2022/07/01

2022/07/01

90点

テレビ/無料放送/NHK BSプレミアム 
字幕


「人の起こす猥雑な現実を前にしても画は育つ。其処に映されるのは茶番か、死生観か」

ネタバレ

 ー面白い作品でしたね。いや、「面白い」と言い放ってしまうと少し乱暴か。その伝える言葉の響きやニュアンス、意味合いを大切にして「伝える」と言う事により忠実に徹すれば、興味深いと言った方が作品の質感をより尊重した言い回しに為るのかも…。それは日本でカタカナ英語として相手の持つ繊細でしなやかな感性を肯定的に褒めるのに「ナイーブ」と言う単語を平然と遣う様なもので、naiveと言う言葉本来の持つ意味合いの中に「未熟な」とか「世間知らずの」と言った否定的な意味合いを併せ持つ事をきちんと知っていれば、徒や疎かには割と気軽には遣いづらいものだ。そんな時は同じ事を言うにしても、センシティブなとかデリケートなと言った言い回しを遣った方が間違いは無い様だ。そんな人の神経のちょっと触れただけでもパンッと弾けて震える様な繊細さと神経の濃やかさが画面全体に行き渡っていて見事だった『美しき諍い女』であるが、その銀幕に映し出された実態はと言えば、人間一己の斬られれば鮮血が迸る様などろどろとした欲情と身勝手な生理が牙を剥く、男と女の頭の上で渦巻き、それ故に翻弄されもする、互いの生きて来た道行きに自分のこれ迄の人生の全てを賭けた「不条理劇」だった。
 この映画に初めて出会ったのは1991年の10月2日。時間は午後1時45分からだった。どうしてこんなに憶えているかと言うと、この映画は1991年に開催された第四回東京国際映画祭で上映されたんですね。その年の「カンヌ」でコンペティション部門の只中で大きな評判を取り、パルムドールに次ぐグランプリを獲得したこの映画は特別招待作品での上映として日本に来ていた。その国際映画祭を訪れた際に観たうちの一本がこの映画だった。会場は渋谷のオーチャードホールでした。1991年の10月2日=これが日本で最初の『美しき諍い女』の上映だったんだけれども、で、私、この映画、観ました。この時も。そしてその後も。それは映画祭での上映後の一般公開だったりテレビ放映後に予め予約しておいたビデオでの視聴だったりしたのだが、面白いのはこれからで、作品が観るほどに時の経過に反比例して若返っている事だ。昔から「いい映画と言うのは観ていて古さを感じさせない」映画だとよく言われるが、本当にいい映画=即ち本物の映画とはそれこそ繰り返し観返す度に新しい発見が在って、作品への興味や関心が尽きず、その事を足掛かりに改めて興味や関心が湧いて来るーそう言う映画を言うのだろう。そう言う映画にはなかなかお目に掛かれるものでは無いが、前に観た時よりかなりの時間をおいて観た時に、以前には気が付く事の無かった別の発見を得る事で、「映画」はその分だけ若返りを果たすと言うものである。本当に。そしてこの『美しき諍い女』と言う映画にはその事ー即ちその倫理を世に問い返すだけの値打ちが在った。その事にのみ言及して言っても、この映画は並外れて傑出した映画だったと言える。そしてその事は四時間に迫ると言う上映時間の長さばかりでは無い。
 この映画は画家とモデルについての映画だ。だがそれだけでは其処に何の新味も無い。映画は四時間、画家とそのモデルとの関係を描くのみであるが、その「描く」と言う行為の積み重ねを通して、描く者と描かれる者との間に潜む、凡そ抜き差しならない濃密で密やかな空気感を探り当て、白日の下に暴き出す様に見詰められて行く。その描く者と描かれる者との間で交わされる、粘っこく、互いの肢体に絡み付く事で相手の求める一部始終を己が口で吸い取ろうとする、烈しくも妖しさを伴った密やかな交歓と激情の刻には極めて強い、男と女の間で相手をその場で攫って行く様な「エロス」の感覚が醸し出される。フレンフォーフェル(ミシェル・ピッコリ)がマリアンヌ(エマニュエル・ベアール)の肢体を前に習作を重ねた後に、描かれたマリアンヌのヌードを愛撫でもする様に掌にその感触を憶えさせる官能。その噎せ返る様なアトリエの混沌とした世界観に「残酷な真実」の一つの答が炙り出されるーそれは猥雑な人間本来の野性の中に見せる人間の性であり、男と女の生理だ。その「確信犯」と言う言葉にさえ置き換えられる、描く者と描かれる者ー仕掛ける者とその密やかな企てと言う落とし穴に落とされて仕掛けられた者との間に繰り広げられる、桶一杯に水を張って身じろぎする事など赦さない張り詰めた緊迫感の中で見せる「官能」には一つの宇宙観、或いは哲学さえ感じさせる。神代の時代が始まる遥か以前、未だ始まっても居ない時に宇宙はどうやって形作られて来たのか。この世には何故描く者と描かれる者、仕掛ける者と仕掛けられる者が居るのか。「描く」と言う事の顛末を行き着く処迄糾明したら、その行き止まりに求められる「答」にはどんな真実が在るのか。そして最後に一時の捏造などでは無く、男と女がすったもんだして、文字通り心を開き、何より自らの性を解放し、押し広げて得られた糾明された真実の声に耳を当てて聴いた時に、その真実は何を示唆し何を齎してくれたか。其処に行き着く処、幸福感は在ったかと言う一欠けらの人生哲学ーそしてその哲学の概念を丸ごと支配する様などろどろと渦巻く宇宙の「摂理」を遡って得る為に、男と女=画家とモデルは匂い立つほどに美しくも、互いの業の深さの中で色めき立つ官能の中で、「描く」と言う不条理の世界に身を曝す事の意味と、本来観てはいけない「真実」を汗みどろで追う。これはそう言う不条理劇なのだ。
 そうやって求められ導き出された答に画家とモデルはそれぞれの立場で納得の行く幸福論をその「残酷な真実」の中に見出す事が出来たのか。それは実はたった一度の人生の中では「生きる」事を赦された残り時間によって、大分その意味合いが違って来る。フレンフォーフェルはマリアンヌとの格闘の末に艶かしくも凄絶な残酷な真実に辿り着き生涯の傑作を物にするが、そうやって得られた真実の逼り方が必ずしも人を幸せにはしない事を感じ取って、別の画と置き換え、その画を封印してしまう。その行為を察してニコラ(ダヴィッド・ブルツタイン)はフレンフォーフェルに茶番だと言うが、果たしてあれは本当に茶番だったのか。少なくともフレンフォーフェルなどに比べればまだまだ若いニコラならばまだまだ自分の芸術を突き詰めて「描く」と言う行為から導き出される真実と自らの性を問い続ける時間は幾らも在る。が、流石にフレンフォーフェルの様な大家とも為ると人生の残り時間もそうは残されていない。以前に未完の儘ほったらかしにしておいた『美しき諍い女』ももう十年以上前の話だ。そんな中で以前はモデルも務めて貰った細君のリズ(ジェーン・バーキン)に詫びる気持ちと、「残酷な真実」を画家として追い掛ける余り、互いにその術中に嵌って落とし穴に落とされた罪の意識を赦し合い、赦しを請う事を通して同じ墓に入る者同士人生の至福の幸福感を感じ取ろうとする「死生観」に、人生の最期の重荷を背中から降ろす意味が在る。その使命感と責任迄も茶番と言われてはそれ迄だが、フレンフォーフェルは敢えて自らが勝ち取った傑作を封印し別の作品に置き換える事で、それ迄の疵付けて来たものに対して、詫びると共に、人生の「至福」の意味に初めて目覚めるのだ。ジャック・リヴェット監督作品。

2022/03/31

2022/03/31

-点

VOD/GyaO!/レンタル/タブレット 
字幕


ジェーン・バーキン可愛い

小説を読むように少しずつ見ました
美しい素描 素晴らしい裸婦デッサン
絵が描けるって良いな 猫かわいい

2022/03/19

2022/03/19

80点

VOD/GyaO! 
字幕


隠された人間の真実

ネタバレ

4時間ものの映画ですので、今まで見るのを躊躇していましたが、思い切って鑑賞です。かなりの部分が、画家が絵を描く時間で、筆が絵を作り上げていく映像は、クルーゾーのピカソの映画を思い出します。手元と顔を一緒に映さないようにうまく編集されていて、目を凝らしてしまいましたが、穴は見当たりませんでした(笑)。そして、画家とモデルを中心にして、恋人や妻、妹、画商の間の心理劇が、絵の完成までの間に展開されていきました。そのゆったりした流れの中で、十分に心の動きを感じ取ることになるという造りになっています。そして、絵は完成していきます。

その絵を見た大人2人と書いた本人は、拒否反応を示し、唯一子供だけが美しいと感じます。たぶん絵を見せてしまえば身も蓋もないのでしょうが、そこにはきっと、美しい女性の中に人間の大人の隠されて外には見せない、言葉で表せないほどの負の作用を起こす存在を感じたのでしょう。リズが十字架を書いているので、悪魔的なものかもしれません。話の中で出てきたカトリーヌ・レスコーは、実在しないようですが、その名前から容易に想像できるのは、マノン・レスコーで、これはファム・ファタールを描いた文学としては最初のものと言われています。他にも込められた意味があるのでしょう。

ラストは、いわばそれまでの心理劇の解決編になっていました。二コラは画家に真実を問い、画家は大人の回答をします。画商はビジネスライクに商談をするのみです。そして、周囲に真実の姿をさらけ出し、二コラも感じ取っていると気が付いているマリアンヌは、二コラと妹の関係を横目で見つつ、きっぱりと別れを告げるのでした。画家は妻に対して描けなかったことを、後輩のガールフレンドにやってしまったというのは、酷いものではありますが、そこには真実を追求せざるを得ない芸術家の姿があったということになります。長い長い映画でしたが、それなりに面白かったと思いました。

さて、GYAOの映像は少々ぼやけていて、かつ10分ほどのカットがあったようです。カットは大勢に影響はないのですが、この作品の一部をネットで見ると、すごくクリアな美しい映像だったので、別のソースでいつか楽しんでみたいなと思いました。