「人の起こす猥雑な現実を前にしても画は育つ。其処に映されるのは茶番か、死生観か」
ネタバレ
ー面白い作品でしたね。いや、「面白い」と言い放ってしまうと少し乱暴か。その伝える言葉の響きやニュアンス、意味合いを大切にして「伝える」と言う事により忠実に徹すれば、興味深いと言った方が作品の質感をより尊重した言い回しに為るのかも…。それは日本でカタカナ英語として相手の持つ繊細でしなやかな感性を肯定的に褒めるのに「ナイーブ」と言う単語を平然と遣う様なもので、naiveと言う言葉本来の持つ意味合いの中に「未熟な」とか「世間知らずの」と言った否定的な意味合いを併せ持つ事をきちんと知っていれば、徒や疎かには割と気軽には遣いづらいものだ。そんな時は同じ事を言うにしても、センシティブなとかデリケートなと言った言い回しを遣った方が間違いは無い様だ。そんな人の神経のちょっと触れただけでもパンッと弾けて震える様な繊細さと神経の濃やかさが画面全体に行き渡っていて見事だった『美しき諍い女』であるが、その銀幕に映し出された実態はと言えば、人間一己の斬られれば鮮血が迸る様などろどろとした欲情と身勝手な生理が牙を剥く、男と女の頭の上で渦巻き、それ故に翻弄されもする、互いの生きて来た道行きに自分のこれ迄の人生の全てを賭けた「不条理劇」だった。
この映画に初めて出会ったのは1991年の10月2日。時間は午後1時45分からだった。どうしてこんなに憶えているかと言うと、この映画は1991年に開催された第四回東京国際映画祭で上映されたんですね。その年の「カンヌ」でコンペティション部門の只中で大きな評判を取り、パルムドールに次ぐグランプリを獲得したこの映画は特別招待作品での上映として日本に来ていた。その国際映画祭を訪れた際に観たうちの一本がこの映画だった。会場は渋谷のオーチャードホールでした。1991年の10月2日=これが日本で最初の『美しき諍い女』の上映だったんだけれども、で、私、この映画、観ました。この時も。そしてその後も。それは映画祭での上映後の一般公開だったりテレビ放映後に予め予約しておいたビデオでの視聴だったりしたのだが、面白いのはこれからで、作品が観るほどに時の経過に反比例して若返っている事だ。昔から「いい映画と言うのは観ていて古さを感じさせない」映画だとよく言われるが、本当にいい映画=即ち本物の映画とはそれこそ繰り返し観返す度に新しい発見が在って、作品への興味や関心が尽きず、その事を足掛かりに改めて興味や関心が湧いて来るーそう言う映画を言うのだろう。そう言う映画にはなかなかお目に掛かれるものでは無いが、前に観た時よりかなりの時間をおいて観た時に、以前には気が付く事の無かった別の発見を得る事で、「映画」はその分だけ若返りを果たすと言うものである。本当に。そしてこの『美しき諍い女』と言う映画にはその事ー即ちその倫理を世に問い返すだけの値打ちが在った。その事にのみ言及して言っても、この映画は並外れて傑出した映画だったと言える。そしてその事は四時間に迫ると言う上映時間の長さばかりでは無い。
この映画は画家とモデルについての映画だ。だがそれだけでは其処に何の新味も無い。映画は四時間、画家とそのモデルとの関係を描くのみであるが、その「描く」と言う行為の積み重ねを通して、描く者と描かれる者との間に潜む、凡そ抜き差しならない濃密で密やかな空気感を探り当て、白日の下に暴き出す様に見詰められて行く。その描く者と描かれる者との間で交わされる、粘っこく、互いの肢体に絡み付く事で相手の求める一部始終を己が口で吸い取ろうとする、烈しくも妖しさを伴った密やかな交歓と激情の刻には極めて強い、男と女の間で相手をその場で攫って行く様な「エロス」の感覚が醸し出される。フレンフォーフェル(ミシェル・ピッコリ)がマリアンヌ(エマニュエル・ベアール)の肢体を前に習作を重ねた後に、描かれたマリアンヌのヌードを愛撫でもする様に掌にその感触を憶えさせる官能。その噎せ返る様なアトリエの混沌とした世界観に「残酷な真実」の一つの答が炙り出されるーそれは猥雑な人間本来の野性の中に見せる人間の性であり、男と女の生理だ。その「確信犯」と言う言葉にさえ置き換えられる、描く者と描かれる者ー仕掛ける者とその密やかな企てと言う落とし穴に落とされて仕掛けられた者との間に繰り広げられる、桶一杯に水を張って身じろぎする事など赦さない張り詰めた緊迫感の中で見せる「官能」には一つの宇宙観、或いは哲学さえ感じさせる。神代の時代が始まる遥か以前、未だ始まっても居ない時に宇宙はどうやって形作られて来たのか。この世には何故描く者と描かれる者、仕掛ける者と仕掛けられる者が居るのか。「描く」と言う事の顛末を行き着く処迄糾明したら、その行き止まりに求められる「答」にはどんな真実が在るのか。そして最後に一時の捏造などでは無く、男と女がすったもんだして、文字通り心を開き、何より自らの性を解放し、押し広げて得られた糾明された真実の声に耳を当てて聴いた時に、その真実は何を示唆し何を齎してくれたか。其処に行き着く処、幸福感は在ったかと言う一欠けらの人生哲学ーそしてその哲学の概念を丸ごと支配する様などろどろと渦巻く宇宙の「摂理」を遡って得る為に、男と女=画家とモデルは匂い立つほどに美しくも、互いの業の深さの中で色めき立つ官能の中で、「描く」と言う不条理の世界に身を曝す事の意味と、本来観てはいけない「真実」を汗みどろで追う。これはそう言う不条理劇なのだ。
そうやって求められ導き出された答に画家とモデルはそれぞれの立場で納得の行く幸福論をその「残酷な真実」の中に見出す事が出来たのか。それは実はたった一度の人生の中では「生きる」事を赦された残り時間によって、大分その意味合いが違って来る。フレンフォーフェルはマリアンヌとの格闘の末に艶かしくも凄絶な残酷な真実に辿り着き生涯の傑作を物にするが、そうやって得られた真実の逼り方が必ずしも人を幸せにはしない事を感じ取って、別の画と置き換え、その画を封印してしまう。その行為を察してニコラ(ダヴィッド・ブルツタイン)はフレンフォーフェルに茶番だと言うが、果たしてあれは本当に茶番だったのか。少なくともフレンフォーフェルなどに比べればまだまだ若いニコラならばまだまだ自分の芸術を突き詰めて「描く」と言う行為から導き出される真実と自らの性を問い続ける時間は幾らも在る。が、流石にフレンフォーフェルの様な大家とも為ると人生の残り時間もそうは残されていない。以前に未完の儘ほったらかしにしておいた『美しき諍い女』ももう十年以上前の話だ。そんな中で以前はモデルも務めて貰った細君のリズ(ジェーン・バーキン)に詫びる気持ちと、「残酷な真実」を画家として追い掛ける余り、互いにその術中に嵌って落とし穴に落とされた罪の意識を赦し合い、赦しを請う事を通して同じ墓に入る者同士人生の至福の幸福感を感じ取ろうとする「死生観」に、人生の最期の重荷を背中から降ろす意味が在る。その使命感と責任迄も茶番と言われてはそれ迄だが、フレンフォーフェルは敢えて自らが勝ち取った傑作を封印し別の作品に置き換える事で、それ迄の疵付けて来たものに対して、詫びると共に、人生の「至福」の意味に初めて目覚めるのだ。ジャック・リヴェット監督作品。