パンフレットにはアニエス・ヴァルダ監督のコメントがある。
「自分には理解できない女性、ある種、怒りに満ちた感情をもって描きたかった」
監督自身がこのヒロインに共感していないのか。それならなぜこの映画を演出したのか。「ある種、怒りに満ちた感情を持って描きたかった」とは何に怒りがあるのか。
ヒロインは冒頭のナレーションでは「モナ(ヒロインの名前)が海から来たように思える」と表現している。何か実体がない象徴のような人物なのだろうか。
モナは何ものにも縛られない自由な生き方をしたいという。それが社会や人間関係の縛りに対する反抗とかいったようなものではない。「楽がしたいから」という子供じみたなんというか思春期のこじらせかい、と思った。だが、そういう考えは女性ばかりでなく、男性でも誰でもふと思うことがあるだろう。私などはなんのしがらみのない車寅次郎をバカだな~と思いつつ、そういう風に生きていけたらいいな、という羨望も感じる。
そんな楽して生きたいからと言って、労働も拒否して誰かの家に泊まらせてもらう生活なんてできない。金を稼がなきゃ生活はできない。まったく他人と接触しないで生きるなんてできないし、そうしたいなら人里離れて山奥に引っ込むしかない。そうして生きるサバイバルなんてモナにはできないだろう。そうなると妥協して他人との中で働くしかないが、それも嫌というのならこれは単なるわがままとしか思えないし、そんなことではまあどこかで死亡するのは分かり切ったことだ。したがってモナの末路は冒頭で描かれる。彼女は結局死亡する。まったく自由に生きるということは末路はこうなるということはモナは本望でないだろうし、それを想像なんかしていないだろう。それではモナは考えが甘かったのだろうか。
なにか頑なに自由に生きることに執着するのは、ひょっとして人生に絶望してしまったからなのだろうか。何があったのかは説明していないし、ヴァルダ監督も彼女は理解できないとしているから、こちらで彼女の絶望を想像するしかない。
例えば男性と一緒になる、付き合うということでは、男性は女性に自分に尽くしてくれることを望むのだろうし、そのためには自分の時間を相手の男性のために使うことであるから、それはいくら愛している男性のことだからと犠牲にできないことなんだろうと思った。
このモナの旅で出会った男性を見ると、彼らは自分の理想の女性像を求めているようである。男性の哲学者もモナと同様に何ものにも縛られない自由を求めていたと思う。だが現実には何か仕事をして金を稼がなきゃ生活はできないことはよく分かっている。だからモナにも彼女のためにとは思って説教するのだが、言葉の端々には女は男の庇護のもとに、彼に尽くせという男の女への理想がうかがい知れる。
対してモナが出会う女性たちは、こんなことは現実にはできないが、女性に対する男の縛りにはうんざりしていて、そんな呪縛とはまるで関係なく生きようとするヒロインはうらやましいと思っているに違いない。
この映画の製作は1985年。フランスでもこの時代は男尊女卑が強かったのだろう。外国人の私から観れば、フランス女性は自由に生きているものだと思ってしまうのだが、現実には違うのだろう。
ヴァルダ監督の「ある種の怒りの感情に満ちた」というのはこの男性優位の社会に対するものではないか、と思うのである。