「痛切でありながら、ある種の優しさを漂わせる、洗練されたアイロニーの感覚」
小説を翻訳した、村上春樹らしい洒脱な書評である。
謎の多い映画だ。おおよその背景や構造は分かった。サイコスリラーの側面もある。謎をさぐってみる。いや、想像する。まず、オフビートな主人公ネッドは、確実にメンタルヘルスを病んでいる。海パン一丁で病院を抜け出した患者かもしれない。今ごろは、きっと捜索願いが出ている。
入院患者でないならどうだろう。ここで出会う知人のほとんどは、現状の彼の詳細を知らない。もちろん敗残者は、高級住宅地には住めない。鉄道やバスは使えない。なぜなら、彼は海パン一丁で、財布を持っていない。よその町から来るにはマイカーが必要だ。しかし、いくら心が病んでいるとは言え、車と着替えを置き去りにして、マイホームに帰るだろうか。
監督のフランク・ペリーは、製作の終盤でクビになっている。代わってシドニー・ポラックが後を引き継いだ。さらに、女優バーバラ・ローデンで撮影が進んでいた元愛人シャーリー役は、ローデンの旦那エリア・カザンが口を挟み降板させている。他にも何人か配役が交替し、再撮影された。キム・ハンターも後の組だ。これらの事件もまた謎である(プロデューサーの謀略だとか)。
短編小説『泳ぐひと』の映画化は、バート・ランカスターが持ち込んだ企画らしい。主人公ネッドにはランカスターと重なる部分もありそうだ。リベラル派の彼は民主党を支持し、公民権運動やベトナム反戦、反死刑など、多くの革新、左翼的ソーシャル・ムーブメントに積極的に参加した。ネッドのアッパーな社交性とポジティブな《躁》はこれに重なる。
ランカスターの二番目の妻ノーマ・アンダーソンもまた、社会運動をライフワークとする自由主義者だった。映画本編で語られる「婦人有権者連盟」とは、彼女がもっとも精力を注いだ政治団体である。
しかし、23年間続いた結婚生活は破綻する。ランカスターには多くの愛人がいた。彼の浮気相手は男女を問わなかった。ロック・ハドソンも大切な友人だった。今日のハリウッドにおける、同性愛者のオープンなライフスタイルの基礎は、この二人のスター俳優が築いたと言われている。その強欲な性的傾向はFBIの監視対象にさえなった。SEX依存症として報告書に記される。また彼は芸能の人種にありがちな、重い《鬱》に悩まされていた。
小説家ジョン・チーバーもまた、バイセクシュアルとして知られている。結婚生活を送りながら、数多くの男女と関係を持った。そして重度のアルコール依存症である。ニューヨーク御用達の短編小説家と評価されることが多かったが、労働階級、女性、黒人の視点で書けない作家というレッテルも貼られている。
ランカスターとチーバーには、実生活に裏打ちされた光と闇という具体性の中に、男性優位の神話思想が共通言語として見え隠れする(もちろんLGBTとは別次元の文脈)。そして小説と映画が、これに重なって見えてくる。本作品からうける"アイロニーの感覚"とは、私にとってはこの四者に共振する虚栄のイマジネーションの奇妙な対象化に相当する。