ストーリーも面白いのだが、何しろこの造形や建築デザインがあまりにも素晴らしくて目を奪われる。ときに人はスクリーンの四角い枠の中で物語が進むことを期待しているが、この映画はそうした固定概念を否定する。荒川修作とマドリン・ギンズによる秀作、例えば「天命反転地」のような逆説的な発送が1919年に存在した、と考えるのは過剰反応かもしれないが、このあまりに不思議な世界は見る側に強い刺激を与える。四角い画面の枠を崩し奥行きを生み出す世界は尋常ではない。主人公の幻想がそのままゆがんだ世界を生み出し、その幻想が現実と重なってゆく。
物語は(ネタバレになるが)二重構造だ。狂気的なカリガリ博士が夢遊病者のチェザーレを操作して次々と殺人を重ねてゆく、というドラマが実は精神病院の患者の妄想だったとする。これらの展開は即座にヒッチコックを連想させる。多重人格という意味では『サイコ』や『ファイト・クラブ』にもつながり、ティム・バートンの世界にはそのまま影響しているように感じさせる。このように主体となる人物の狂気が示されるドラマでありながら、果たして本当にこの狂気の主人公が狂気なのか?という反転をほのめかして終わるところが実に意味深だ。ミイラ取りがミイラになるような世界。『地獄の黙示録』でウィラードがカーツを殺して、自らが王となるような感覚。
この感覚はまさに大衆がメディアを使った政治に支配されてゆく感覚と重ならないだろうか。「カリガリからヒトラーへ」という説は正しくないことが立証されたものの、この映画の反転に次ぐ反転は、まさに社会の変化。そしてその社会を意図的に揺動する支配者との関係にシンクロしてゆくものなのではないか。
予備知識なく見たものだが、当時のドイツ映画が世界的に最先端にあったことを示していると思う。ドイツ表現主義が当時の第一次世界大戦下でぎりぎりの表現をここに託したとしたら、映画の存在意義はまだまだ残されていると信じたい。