クリストファー・クラーク「夢遊病者たち」を読むと、第一次大戦に至るまで、それはまるで夢遊病者のような人々の意識が民族主義やポピュリズムを呼び起こしたことが書かれているが、奇しくもこの映画は第一次大戦の集結とともに作られている。そう考えるとこの映画に出てくる多重構造の主は誰か?という疑問を残す。まさにラストシーンはそういうニュアンスではなかろうか。
冒頭のふたりの会話に白い女性が現れドラマが踏み込んでゆく。チェザーレという人物もカリガリも誰も彼もがなにかに操られているようだ。映画の背景となる表現主義的なセットは、まさにそうした不安を表現している。催眠術はひとりより大勢にかけたほうが効きやすいというのは正論だ。同調圧力や大衆操作は、100年前のこの時代から何も変わらない。
3度めの鑑賞だが、みるごとにその視点と価値を帰る不思議な映画だ。もちろんこの映画がその後の多くの作家に影響を与えたことは言うまでもないが、この映画の普遍性はそれだけではない。時代を超えて価値を変化させる魔力があるのだと思う。