引き鉄を引くには大義や理由が必要であり、この映画でも、終盤になってようやく銃口は人間に向けられ、やっと銃弾は互いに撃ち込まれる。互いとは何か。
この広大な舞台は、カントリーと称される。しかし、そこには何もないわけではなく、地勢を眺めれば、残丘や山があり、牛や馬がはむ草原が広がり、疎な灌木を目当てに行けば、水源地として小川が蛇行している。ビッグマディは、より古い時代には泥濘や泥炭の土地であったかもしれないが、学校の教師がその土地の権利を相続している。ブランコ谷はその白さから名付けられているが、石灰岩かチャートだろうか、やや海を匂わせる。そうした広大さの中で、牧場を営む二つの権力は拮抗し、互いに干渉しつつも平衡を保っていた。しかし、一方の権力を統制する少佐の娘が呼び込んだ、グレゴリー・ペックが演じるジム・マッケイによりその平和な平衡関係が乱されていく。ジムは、一見すると平和主義者にみえる。しかし、彼の運動や発言が映画を動かし、この権力関係に介入することで、カントリーは不穏な様相を帯びてくる。彼は、大陸の東部からやってくるが、船長をしており、大海原をホームとする人間である。安定した大地に安住することはなく、彼がゆく先では、南西部のカントリーですら波立ち、揺れ動く。
サンダーという葦毛にみえる馬が登場する。サンダーに乗ろうとするジムがいる。ジムがサンダーを動かそうとすると、跳ね回り、ジムを振り落とそうとする。ジムは幾度となく落馬をする。ジムが西部の流儀に適応する場面にもみえるが、彼が乗らなければ馬は馬のままでいるが、彼が乗ることで馬は暴れ馬に変身する。チャールトン・ヘストンが演じるスティーブは牧童頭として、牛の群れや牧場労働者と経営者の少佐との間でなんとか仕事をこなしている。周りには一軒もないような小屋に住み、周囲の広袤を監視している。彼は少佐の娘であるパットに想いを寄せ、時には暴力的に口づけにチャレンジしたりもする。スティーブは、このカントリーの天地へのジムの襲来をよく思っておらず、二人の間には、少々諍いが勃発する。ロングショットとミドルショットをモンタージュしながら、彼らは挨拶をしあう。地平と丘が彼方にみえ、未明と思しき時間帯に、この牧歌的な殴り合いが観衆もなく、執り行われる。地平や穏やかな夜明けは、ジムの好戦的(応戦的)な態度によっても引き起こされている。ジムの意図は、嘘つき呼ばわりされたことの報復というよりも、ビッグマディの経営を見据え、少佐の有能な牧童頭であるスティーブのスカウトにあると思われる。ジムは、賢く、したたかでもある。
カントリーの女性たちは、ハットを被って馬を駆る。教師と少佐の娘は、この映画の僅かながらの女っ気であり、そのほか宿駅の二階には例の如く娼婦が売笑を営んでいるぐらいである。彼女たちは、近代的な男権社会から見れば、男まさりでもあり、女だてらにと噂されそうな活発な運動性を持っている。しかし、彼女たちも、やはりジムに手篭めにされてしまう。彼は、ヘネシー一家への殴り込みに際しても無防備であったように、暴力的な手段を使わずに、女性たちに切り込んでいく。航海さながらに、コンパスと地図を持って、海だけでなく陸を制していく。ジムが最初に現地で仲良くなる手段に、スペイン語の操作があり、メキシコに由来をもち、ジム同様に、この地ではほとんど権力も権利も持ち得ない馬丁を手なずけているあたりにも、戦略性が窺える。
ビックマディの川のほとりで、土地の権利者の女教師とジムの間で口頭で土地売買が合意され、握手が締結される。そのほとりを騎乗で去る前に、ジムは川に石を投げ込む。ふとした仕草であるが、この行動は、終盤に貯水槽にピストルを落とし死んでしまうヘネシーの息子と、その前段で父の形見でもあるピストルを大地に投げつけるジムとがなす運動にも波紋を及ぼしている。
約1000カットほどが映写機を流れるが、ディゾルブの前後の焦点をうまく重ね、ワンカットの中で、消える人物と現れる人物をうまく配し、それらを包含した構図に舌を巻く。音楽には強弱どころかブレイクとなる無音があり、その無音に小さな効果音を保ちつつ、サイレントな運動をみせる巧みさも光る。映画的な視線のリレーやモンタージュを使いながらも、谷の決戦では、俳優の声の響きを印象的に用い、全編に通底する俯瞰とロングショットがこの一連のアクションにおいても効果的に使われている。また一方のジムの決戦では、グレゴリー・ペックに左眼をつぶらせている。ここに一つの視線が否定されるとともに、開いた右眼と銃口が直線上に重なり合う。映画の焦点と物語の焦点もここに重なり合う。