1951年夏。南アルプスの美しい村オート・サポワ。17歳の少年ファブリス(ディディエ・オードパン)は母親と休暇を過ごすために帰省してきた。しかし、母エレーヌ(マリー・モーバン)は年下の若い男(ジャン・クロード・ブイヨン)と情事にふけり、インドシナ戦争から帰還した兄ジュリアン(ブルーノ・プラダル)は酒浸りになっていた。
そんなある日、雄大なアルプスの自然の中を散歩していたファブリスは、エレ(グウェン・ウェルズ)という少女と出会う。エレは、耳も聞こえず、口をきくこともできない無垢な少女で、多くの村の男に欲されるまま身をまかせてきた。ファブリスはエレの純真な美しさに惹かれてゆく…。
クロード・ルノワール(ジャン・ルノワール監督の甥)のカメラが写し撮る、南仏の山村の風景描写や、エレの無垢な美しさ、室内のテーブルの上の花や食器や食品に至るまで、溜息が出るほど素晴らしい映像美です。
そしてこの作品で特異なのは、エレの目を通した主観ショットが随所に挿入されていることです。聾唖で精神薄弱のエレ…。彼女がひたすら見つめる花や虫や滝の水…。彼女の目に映る村の男たち。そしてファブリス…。
エレの主観の場面では、音声が途切れ、音楽は遠のき、無音か、もやもやした外界と遮断された独特の効果音が流れます。そして、フと音声が戻り、客観的な描写に戻る(1ショットのまま、音声の変化だけで主観→客観に戻るところもあります)。例えば、序盤で山道を歩くエレが、近づいてきた村の男に抱きつかれ愛撫される場面は全くの無音で(これがエレの主観。男たちのすることに対して無感情なのだと思います)、この男に仲間の男がかける声で音声が戻り、客観的な描写に変わります。
これらのエレの目を通したショットにより、耳が聞こえず、感情も眠っていたエレの内的世界が伝わり、物語の進行とともに、静かだった(“無”だった)エレの内的世界に変化が生じていくのがわかります。
ファブリスはエレが耳が聞こえるのではないかと感じ、言葉の発声を繰り返しエレに教える。村の男たちとは全然違う態度で自分に接するファブリスに、エレは初めての感情を抱くようになる。外界との壁の中でもがき、それを打ち破る幻想を見るエレ。彼女の中で感情が目覚めていく様子が、主観ショットを通して描かれます。
そしていろいろなことがあり(中略)、夏の終わりとともに、エレとファブリスの関係も終焉を迎えるようです。若い男にふられて打ちひしがれる母親をなだめるファブリスの姿を見て、エレは踵を返して村の小さな教会に入っていく…。
教会に飾られたキリストの壁画に口づけをし、エレの心はほとんど何も聞こえない世界の中で彷徨う。石でできた天使の羽の破片を耳にあてるエレ。微かに教会の鐘の音が聞こえてくる。
と、その時、ぎぃと扉の開く音がして、鐘の音が高らかに響き、エレの表情は歓びに包まれる。
これまでは、エレの内的世界を描く無音のショットが外界の音に破られると、いつも客観的な描写に戻っていましたが、ここでは、鐘の音が聞こえた瞬間(その音はエレにも聞こえていて)、エレの内的世界と外界の間の壁が初めて取り払われたのではないかと思います。
そして、さらにもう一つの視線。本作はヴァディム監督の自伝的要素の強い作品で、主人公のファブリスがヴァディムの投影なのだそうですが、草原の中を歩くエレを眺めるショットなどには、エレへの憧憬を込めた監督の視線が感じられ、そのような場面では、フィリップ・サドルのリリカルで美しい音楽(エレのテーマでしょうか)が必ず流れます。
エレが鐘の音に歓びの表情を見せるラストシーンでは、力強い鐘の音に、エレのテーマ曲とも言うべきサドルの美しい音楽が高らかに流れ、エレは歓喜の涙を流します。そして、これ以上ない絶妙の表情をとらえて画は静止し、その静止画の上をエンドクレジットが流れます。
死んでいた感情、まだ生まれていなかった感情がエレの中に湧きあがり、新しい何かが彼女の心に誕生した瞬間ではないでしょうか。本作はヴァディム監督の少年時代のひと夏の経験であるとともに、エレの成長物語でもあると思いました。
映像、音楽ともに絶品で、素晴らしい作品です。
ぜひご覧ください