クロースアップの多用。陰影の効いた画づくり。劇中に名前が登場するが、まるでジャン・コクトー映画を彷彿とさせるような場面がしばしば。
愛なきセックスにより蔓延する感染病と、そのウィルスを盗むという犯罪の匂い。カラックスの脳裏には往年のフランス映画(メルヴィルやら)があったのだろうな、と邪推してしまった。それにしても、明確に描写されるワケではないが、この設定が醸し出す不思議な雰囲気はおもしろい。彗星が近づくとアスファルトが熱く燃え、季節外れの雪が降る。そんな世界を生きる若者たちが見せる「疾走する愛」は、さすがフランス映画なので言葉と言い回しでエスプリを効かせながらも、走り続ける役者の身体と、それを追いかけ捉えるカメラのおかげで体感できる。全くもって理解は出来ていないのだが、解る気がするのである。やはり、映画にとって「走る」ことは唯一無二の映画的な表現なのだと改めて痛感した次第。
と言ったところで、正直、わたしはこの映画の走るシーン以外は、細やかなクロースアップの連続とコンテばかりに意識がいってしまって、物語うんぬんを味わっていなかったように思う。思わぬ場所に据えられたカメラ、凝ったフォーカスの画、もちろん雰囲気あるセットも含め全編を通じてレオス・カラックスの才気に呑まれ、それしか印象に残らなかったという・・・。記憶に残るのは走るシーン、カラックスの才能、ジュリエット・ビノシュのうつくしさ。これだけのような気がするのだ。それで十分な気もするが、わたしの好きな映画にはもっと豊かさがあるようにも。そもそも苦手なフランス映画だが、本作もその例に漏れないのだ。