ファニーとアレクサンデル

ふぁにーとあれくさんでる|Fanny och Alexander|----

ファニーとアレクサンデル

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レビューの数

25

平均評点

82.7(102人)

観たひと

158

観たいひと

45

基本情報▼ もっと見る▲ 閉じる

ジャンル ドラマ
製作国 スウェーデン フランス 西ドイツ
製作年 1982
公開年月日 1985/7/6
上映時間 311分
製作会社 スウェーデン・シネマトグラフ=スウェーデン放送協会TV1=ゴーモン=ペルソナ・フィルム=トービス・フィルムクンスト
配給 東宝東和
レイティング
カラー カラー/ビスタ
アスペクト比 アメリカンビスタ(1:1.85)
上映フォーマット
メディアタイプ
音声

スタッフ ▼ もっと見る▲ 閉じる

キャスト ▼ もっと見る▲ 閉じる

解説 ▼ もっと見る▲ 閉じる

スウェーデンの古い大学町ウプサラを舞台にブルジョワ階級エクダール家の人々の姿を1970年のクリスマスから約2年間の流れの中で描く。全5部より構成されている。エグゼキュティヴ・プロデューサーはヨルン・ドンナー。監督・脚本は「秋のソナタ」のイングマール・ベルイマン。撮影はスヴェン・ニクヴィスト、音楽はダニエル・ベル、美術はアンナ・アスプが担当。出演はグン・ヴォールグレーン、エヴァ・フレーリングなど。

あらすじ ▼ もっと見る▲ 閉じる

〈プロローグ〉大邸宅の一室でただ一人、人形芝居に興じる少年アレクサンデル・エクダール(バッティル・ギューヴェ)。彼は、亡霊を目撃することができる幻視の力の持主である。 〈第一部・エクダール家のクリスマス〉スウェーデンの地方都市ウプサラ。1907年のクリスマス・イヴ。富裕な俳優で劇場主のオスカル・エクダール(アラン・エドヴァル)は、キリスト降誕劇を上演している。妻で女優のエミリー(エヴァ・フレーリング)、彼らの子供アレクサンデルとその妹のファニー(ペルニラ・アルヴィーン)も出演している。劇の後、クリスマス・パーティが催された。中心人物は、もと女優であり、今日の栄華を築いたオスカルの母ヘレナ(グン・ヴォールグレーン)だ。彼女の三男、つまりオスカルの弟で土地一番の菓子店を経営するグスタヴ・アドルフ(ヤール・キューレ)が料理の指揮をとり、一方、次男の大学教授カール(ボリエ・アールステット)は酔いどれている。彼の家計は火の車で、ドイツ人の妻リディア(クリスティーナ・ショリン)にぐちを言い、なじる。グスタヴは、寛大な妻アルマ(モナ・マルム)公認で、召使いのマイ(ペルニラ・ヴァルグレーン)を愛人にしている。こうした大家族をひきいるヘレナは、パーティの後、一人残って、昔彼女の愛人だったイサク(エルランド・ヨセフソン)に、息子たちの話をする。 〈第二部・亡霊〉年が明けて、二月上演の『ハムレット』を劇場でリハーサルしていたオスカルは、過労のため突然倒れ、死んでしまう。ヴェルゲルス主教(ヤン・マルムシェー)の手で盛大に葬儀が行なわれた。父オスカルの亡霊を目撃するアレクサンデル。 〈第三部・崩壊〉オスカルの遺言で劇場をひき受けたエミリーは、努力するが、一年後、不入りから空しく劇場から手をひくことにする。ある日、アレクサンデルは、母がヴェルゲルス主教と結婚することを母自身から聞き、ファニーと共にエクダールの家を去り、主教館に移った。主教の母ブレンダ(アリアンヌ・アミノフ)、妹ヘンリエッタ(カースティン・ティーデリウス)、そして病気で寝たきりの叔母エルサ(ハンス・ヘンリック・レールフェルト)を紹介されたエミリーと子供たちは、この主教館をつつむ暗い空気に驚く。さらに華美に生活することを恐れる主教は、彼女たちに質素な生活と精神生活を強いた。 〈第四部・夏の出来事〉翌年、別荘でくつろぐヘレナのもとにエミリーが訪れ、結婚は失敗だった、離婚したいが夫が許さないと、苦悩を訴えた。アレクサンデルは屋根裏部屋にとじ込められ、主教の娘たちの亡霊におびやかされる。 〈第五部・悪魔たち〉エミリーの訴えを気にしていたヘレナはイサクに相談し、イサクの計らいで、子供たちは脱出に成功、イサクの家に預けられる。子供たちに去られ、カールとグスタヴの訪問で離婚をほのめかされた主教は、夜、寝つかれず、エミリーに心情を吐露する。彼女は主教の飲物に睡眠薬を入れ、彼は眠りに陥った。その頃、エルサの部屋のランプが倒れ、館は火に包まれた。逃げ遅れた主教も焼死する。 〈エピローグ〉エミリーはなつかしい劇場を訪問した。春になり、マイはグスタヴ・アドルフの子供を産んだ。エミリーはストリンドベルイの新作『夢の戯れ』の台本をヘレナに渡し、いっしょに演じたいと告げる。その頃、アレクサンデルの前には主教の亡霊が現れるのだった。

キネマ旬報の記事 ▼ もっと見る▲ 閉じる

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巻頭特集 キネマ旬報創刊100年特別企画 第2弾 1980年代外国映画ベスト・テン:ベスト20グラビア開設

2010年12月上旬号

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1985年11月下旬号

ザ・セレクション:ファニーとアレクサンデル

1985年9月下旬号

外国映画紹介:ファニーとアレクサンデル

1985年8月上旬号

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1985年7月下旬号

グラビア:ファニーとアレクサンデル

1985年6月下旬号

試写室:ファニーとアレクサンデル

2018/11/27

2018/11/28

90点

映画館/兵庫県/元町映画館 
字幕


大団円とも言えるような穏やかな結末

神の不在や絶望を描いてきたベルイマンが、晩年になって大団円とも言えるような穏やかな結末の作品を撮ったのが感慨深い。ブルジョア家庭での絢爛豪華な暮らしと主教の家での過酷な扱いとの対比が鮮やかで、亡霊を見る幼少期のトラウマのような幻覚も含めてスペクタクルな5時間余りを楽しませてもらった。ファニーの無言で見つめる瞳と女優陣の艶やかさやも印象的だが、陽気なパーティのシーン等は「ゲームの規則」をも思い起こさせて余裕さえ感じさせる。

2018/11/25

2018/11/25

95点

レンタル/東京都/TSUTAYA/新宿 TSUTAYA/DVD 
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ベルイマンの最高傑作

 本当に素晴らしい。ラストで祖母のヘレナ(グン・ヴォーグレン)が“人生にはどんなこともあり得る、何でも起こり得る”、と戯曲を通してアレクサンデル(バッティル・ギューベ)に語っているが、観ていると、そう思えるような気持になる。

 イングマール・ベルイマンは、この祖母ヘレナを存在させることによって、人生に起こってくる様々なことを受け入れようとしているのだろう。

 アレクサンデルやファニーのことを虐待する、あの悪魔の様なヴェルゲルス主教でさえ、妻のエミリー(エヴァ・フレーリング)に憎まれているとは思っていなかった、愛されていると思っていたと死ぬ前に語るような小さな人間であることが明かされる。

 そして、主教が死んだ後も、亡霊となって、アレクサンデルに囁きかけるのが、怖かった。主教は、ベルイマンの父がモデルのようだが、彼自身かもしれない。ベルイマンも神の存在から離れられない所があるから。

 観るのも何回かで、しかも、時間が取れずに、何日間かに分けて観ることになってしまったが、素晴らしかった。やはり、これがイングマール・ベルイマンの最高傑作だと思う。

2018/08/04

2018/11/15

90点

映画館/東京都/恵比寿ガーデンシネマ 
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ベルイマンの集大成

ベルイマン生誕100年記念特集、「ファニーとアレクサンデル」は、わたくしが映画とは離れた生活を送っていた頃の映画ゆえ今回初めて観た映画ですが、5時間を超える尺が全く苦にならないどころか、終わってしまうのが惜しいと思えるほど夢中にさせられる、ベルイマンの集大成と呼んでも良いような傑作として楽しみました。
主人公の少年アレクサンデルが無人の豪邸に独りぼっちでいると、裸婦像の彫刻が動いたり、「第七の封印」に登場するような悪魔を幻視したりと、想像力豊かで怖がり屋の少年であることを示すプロローグに続いて、この少年を取り巻く大家族が過ごすクリスマスイヴの喧騒を描く魅力的な導入部を持っています。
映画の前半は、ベルイマン自身の少年時代かと思わせる主人公アレクサンデルの目を通して、一家の柱である祖母を中心に、3人の息子とその妻たち(アレクサンデル自身は劇場と劇団を経営する長男の息子です)、それにメイドたちを描きますが、おおらかな作劇はベルイマン“夏の映画”群に近い楽しさです。
妻と3人の子供に囲まれていながら、母の家の若いメイドと浮気を楽しむ三男の話など、「夏の夜は三たび微笑む」を想起する一方、“自分は落ち目だ”と愚痴る次男の話は暗く湿ってはいるものの、この次男も、何度も同じ仕草を繰り返す滑稽さがありますし、彼が子供たちの前で披露するオナラなどは爆笑を呼び、前半は幸福感に満ちています。
映画の前半のうちに主人公アレクサンデルの父は死んでしまうものの、アレクサンデル自身は父の死を深刻には捉えていないようですし、父は死後もアレクサンデルの前に亡霊として姿を見せますから、ベルイマン冬の映画群のように深刻な哲学は浮かび上がりません。
しかし、映画の後半、主人公の母が主教の求婚を受け入れて、アレクサンデルも妹ファニーと共に主教の館に住むようになって以降の展開は、それまでの自伝的な語りを一転させ、冬の映画群のような冷たい哲学性を湛えながら、思い切り虚構の世界と切り結ぶ映画になってゆきます。
さらにこの後半では、主人公の義父となった主教が残虐な本性を覗かせる展開もさることながら、祖母の旧友であるイサクというユダヤ人が、アレクサンデルと妹を主教館から抜け出させて自宅に匿うくだりでの、非現実的で夢魔的とも呼べるエピソードが展開し、冬の映画群とも毛色の違う一面を見せます。
主教のもとを抜け出したアレクサンデルと妹、主教の許にとどまらざるを得ず主教の子を腹に宿してもいる母エミリーが、果たしてどこに向かうのかと思った映画は、主教の叔母が火事を起こして主教ともども死んでしまうという、呆気ないような展開を示した末、再び夏の映画群を思わせるおおらかな空気の中で物語を閉じ、観客を安堵させます。
主人公アレクサンデルが、義父となった主教によって押し付けられてくる信仰に対して強烈なまでの反発を見せたり、“神なんてクソ食らえだ、いたら蹴飛ばしてやる”などと言い放ったりするあたり、ベルイマン自身の自画像のように思え、そんな反抗的な主人公像が、この映画を面白くしている要素ではあります。

2018/09/14

2018/10/21

-点

映画館/東京都/UPLINK 
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この物語の主題は何か?

ファニーとアレクサンデルという題名の通り、幼い兄妹二人が辿る数奇な運命を大河ドラマ風に描いて行くのかと思いきや、物語の各処で主人公達の話とはあまり関係が無さそうな、彼らの父方の祖母や兄弟夫婦のエピソードが入り、特に冒頭の第1部はほぼ父方の兄弟夫婦のキャラクター紹介みたいな感じになっているので、この4時間に及ぶ長編の中でこれらのエピソードが必要だったのか良く理解出来なかった。
ファニーが死んだ父親の幽霊を見ることができたり、継父の家から助け出してくれた男の家に幽閉されているのだが、念じることで人を死に至らしめることができる能力を持つ少年が出てきたりとオカルティックな設定もあるのだが、それらのエピソードもあまり前後の脈絡も無く唐突に入ってくるのでエピソード毎の関連性がうまくつながらず散漫な印象しか残らなかった。

2018/10/05

2018/10/05

80点

レンタル/東京都/TSUTAYA/SHIBUYA TSUTAYA/DVD 


ファニーの存在

ネタバレ

20世紀最後の巨匠と言われるベルイマン。数々の名作を残してきた大監督の集大成と言われる渾身の一作。5時間を超える本作には、ベルイマン映画の粋が全て詰まっている。厳しい牧師の家庭で育ったベルイマンは、彼の持つ疑問を常に作品に投影してきた。「神の不在」、「神の沈黙」は彼の中でおそらく永遠に答えは出ない。本作では「神の不在」「悪魔の脅威」「亡霊の存在」が、子供(アレクサンデル)の目線で描かれる。

本作で私が一番気になったのはタイトルの謎(?)だ。本作のタイトルは原作どおり『ファニーとアレクサンデル』。物語はほぼ10歳のアレクサンデルの主観で描かれているので、タイトルにアレクサンデルの名がつくのは分かる。それでは妹のファニーの名前が並列されるのは何故だろう?もちろん、ファニーもアレクサンデルと共に過酷な体験をするのではあるが、ファニーにはあまりスポットがあたらない(ように思う)。アレクサンデルだけでもいいように思うが、ファニーの名がつくのにはきっと何か大きな理由があるはずだ。そこを紐解くには、本作の男と女の描かれ方に大きなヒントがあるように思う。

本作の主人公一家、エクダール家は裕福だ。国民的大女優である祖母のヘレナは、夫亡き後、長きに渡ってエクダール家を取り仕切って来た。彼女は一家にとって絶対的な女王として君臨してはいるが、決して独裁的家長ではなく、深い愛情で家族を取りまとめている。ヘレナを代表とするように、本作に登場する女たちは皆強く、男たちは皆弱い。

ソニアの長男でアレクサンデルの父オスカルは、俳優として劇場を経営している。家族を愛し優しい性格だが、俳優という職業がら、どこか浮世離れしている。彼は舞台稽古の最中に倒れて死んでしまうが、アレクサンデルの前に亡霊として現れる。しかし母の再婚相手の虐待に苦しむアレクサンデルから「何もしてくれないなら、出てくる意味がない」と言われてしまう。オスカルの妻でアレクサンデルの母であるエミリーは、舞台女優として長年夫を支えてきた。夫亡き後、劇場を継ぎ女手一つで頑張るが、主教からの求愛を受けて再婚。ファニーとアレクサンデルを連れてエクダール家を出る。だが、ベルイマンの父をモデルにしていると言われているこの主教は、厳格すぎて妥協を許さず、幼い子供たちにも厳格な生活を求め、「愛」と称して体罰を与える。耐えきれなくなったエミリーは、ある時、主教の目を盗んでヘレナに助けを求める。彼女は言う、この結婚は間違いだったと・・・。夫が死んで新しい生活を求めた彼女に、主教は神に使える「意義ある生活」を説き、エミリーの心に質素な生活の理想を植え付ける。しかし厳格な生活は大人には耐えられても、子供には耐えられない。ましてやそれまで裕福で愛のある生活を送っていた子供には特に・・・。アレクサンデルは継父に憎悪を膨らませていく。エミリーは、自分の過ちを素直に受け入れ、何よりも子供たちの幸福を考える。そのために冷静に行動する理性を備えている。母の的確な判断がなければ、子供たちは主教から逃れられなかっただろう。

その再婚相手である主教は、エレクサンデルには悪魔のような存在だが、実は本作で一番可哀そうな人だ。彼が子供たちを虐待するのは、自らもそうやって育ってきたから。「愛のある体罰」は、彼の信念であり、それこそ神の教えだと心から思っているのである。だが彼の上に神は存在していたのだろうか・・・。彼はある事故で命を落とすが、はたしてその事故は不慮のものなのか、それともアレクサンデルが彼の死を願って強い「念」を送ったからだろうか?彼は死んでからも亡霊となってアレクサンデルにまとわりつく。もし神や悪魔や亡霊が存在しないものとするならば、それはアレクサンデルが罪悪感から生み出した妄想とも考えられる。アレクサンデルは主教の死の原因が自分にあると思い込んでいる。彼はこれからずっとその罪悪感に苛まれるかもしれない・・・。

オスカルの弟のカールとグスタヴもまた、愚かで弱い人間である。カールは莫大な借金を抱えており、アルコール依存症で常に妻に八つ当たりをしている。妻は夫の仕打ちに泣きながら耐えている。一見この妻は弱く愚かなように見えるが、カールは妻を罵りながらも、この妻がいなければ生きてはいけない。短気で好色なグスタヴは、妻公認の愛人を囲っている。自分の子供を身ごもった愛人に、お店を与えてやるなどしてご満悦だ。しかしそれもこれも女たちの広い心があってこその幸せなのだということにどうやら気付いていない。エクダール家のメイドだった若い愛人が、贅沢な生活を自分から要求して、女房面をしていたとしたら、グスタフの妻の怒りをかったことだろう。しかし愛人は自分の立場を承知し、グスタヴに何も要求しない。むしろグスタヴが自分に与えすぎることに不安を感じ、最後には子供と一緒に(ついでにグスタヴの長女と一緒に)都会へ出ることを決意する。グスタヴは女たちの掌の上で転がされている道化に過ぎないのだ。

さて、このようにエクダール家は強くて賢い女たちに支えられている。ここで先の疑問に戻ろう。本作のタイトルが何故『ファニーとアレクサンデル』なのか。繊細で感受性の高いアレクサンデルに比べて、ファニーは兄より神経が太いように思われる。子供らしからぬ無表情に、力強い眼差し。父の死に恐怖を感じるアレクサンデルに対して、ファニーは決然と死にゆく父の枕元に立つ。母の再婚によって主教館へやってきた際も、アレクサンデルよりも新しい環境になじむことができていたと思う。もちろん兄同様、主教を憎んでいたことは確かだろうが、兄のように反抗的な態度は見せない。しかし決して兄を裏切る言動はしない。もしファニーがこのまま主教の元で生活したのなら、要領よく(こずるく)立ち回り、表向きには主教の言いつけを守って品行方正な優等生として育ちながらも、心の中で憎悪を募らせてゆくだろう。そうして主教に対する復讐を虎視眈々と狙うことだろう。その復讐は、アレクサンデルのように死を願って「念」を送るというようなものではなく、味方になる大人を見つけ、主教の化けの皮をはぎ、彼の地位を失墜させるような手立てを考えられると思う。

このようにファニーとアレクサンデルは「対」をなしているのだ。だからこそ本作は『ファニーとアレクサンデル』というタイトルが付けられたのだと思う。ラストではエクダール家に再び幸福が戻って来た様子が描かれるが、大団円とはいかない。シェイクスピアのような古典芝居より新しいスタイルの演劇が求められ、若者たちはこの家を去る・・・。華やかなエクダール家を見ると、栄枯盛衰という言葉が浮かんでくる。やって来る新しい時代を、ファニーとアレクサンデルはどう生きるのか?おそらくどんな時代の波が押し寄せようとも、繊細で神経質なアレクサンデルをファニーが支えていくだろう。私には大人になった彼女の、意志の強い姿を容易に想像することができる。

2018/08/25

2018/08/25

100点

映画館/神奈川県/横浜シネマリン 
字幕


深田晃司が語るベルイマン映画

 東京から始まった「ベルイマン生誕100年映画祭」が横浜にもやって来た。映画祭の自分にとってのクライマックスである本作の鑑賞を横浜でも果たした。私はこうして少し浮かれているが、深田晃司によると、日本におけるベルイマン映画の受容は蓮實重彦の低評価のために遅れたという。一評論家にそこまで影響力があるとは思わないが、特集上映が少なかったのは事実であろう。それだけに今回の特集上映は感慨深い。
 上映後の質問コーナーでベルイマン映画との共通性を問われた深田晃司は謙遜しながらも「三人称の視点で人物をフラットに捉え一人の人物の感情に寄りかからない」点を挙げていた。
 本作については、演劇性・日常性・モノローグの各「レイヤー」での演技のあり方が観客の有無・伝えたい相手との関係性等に基づいて多層的に展開され、それが本作の鑑賞を充実した豊かなものにしているという。特にモノローグの演技の巧さは無神論者のキャラクターも含めて「神との対話」を意識してきた欧米の「自意識」に基づく映画ならではと評価した。