ファニーとアレクサンデル

ふぁにーとあれくさんでる|Fanny och Alexander|----

ファニーとアレクサンデル

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レビューの数

22

平均評点

82.5(0人)

観たひと

150

観たいひと

44

基本情報▼ もっと見る▲ 閉じる

ジャンル ドラマ
製作国 スウェーデン フランス 西ドイツ
製作年 1982
公開年月日 1985/7/6
上映時間 311分
製作会社 スウェーデン・シネマトグラフ=スウェーデン放送協会TV1=ゴーモン=ペルソナ・フィルム=トービス・フィルムクンスト
配給 東宝東和
レイティング
カラー カラー/ビスタ
アスペクト比 アメリカンビスタ(1:1.85)
上映フォーマット
メディアタイプ
音声

スタッフ ▼ もっと見る▲ 閉じる

キャスト ▼ もっと見る▲ 閉じる

解説 ▼ もっと見る▲ 閉じる

スウェーデンの古い大学町ウプサラを舞台にブルジョワ階級エクダール家の人々の姿を1970年のクリスマスから約2年間の流れの中で描く。全5部より構成されている。エグゼキュティヴ・プロデューサーはヨルン・ドンナー。監督・脚本は「秋のソナタ」のイングマール・ベルイマン。撮影はスヴェン・ニクヴィスト、音楽はダニエル・ベル、美術はアンナ・アスプが担当。出演はグン・ヴォールグレーン、エヴァ・フレーリングなど。

あらすじ ▼ もっと見る▲ 閉じる

〈プロローグ〉大邸宅の一室でただ一人、人形芝居に興じる少年アレクサンデル・エクダール(バッティル・ギューヴェ)。彼は、亡霊を目撃することができる幻視の力の持主である。 〈第一部・エクダール家のクリスマス〉スウェーデンの地方都市ウプサラ。1907年のクリスマス・イヴ。富裕な俳優で劇場主のオスカル・エクダール(アラン・エドヴァル)は、キリスト降誕劇を上演している。妻で女優のエミリー(エヴァ・フレーリング)、彼らの子供アレクサンデルとその妹のファニー(ペルニラ・アルヴィーン)も出演している。劇の後、クリスマス・パーティが催された。中心人物は、もと女優であり、今日の栄華を築いたオスカルの母ヘレナ(グン・ヴォールグレーン)だ。彼女の三男、つまりオスカルの弟で土地一番の菓子店を経営するグスタヴ・アドルフ(ヤール・キューレ)が料理の指揮をとり、一方、次男の大学教授カール(ボリエ・アールステット)は酔いどれている。彼の家計は火の車で、ドイツ人の妻リディア(クリスティーナ・ショリン)にぐちを言い、なじる。グスタヴは、寛大な妻アルマ(モナ・マルム)公認で、召使いのマイ(ペルニラ・ヴァルグレーン)を愛人にしている。こうした大家族をひきいるヘレナは、パーティの後、一人残って、昔彼女の愛人だったイサク(エルランド・ヨセフソン)に、息子たちの話をする。 〈第二部・亡霊〉年が明けて、二月上演の『ハムレット』を劇場でリハーサルしていたオスカルは、過労のため突然倒れ、死んでしまう。ヴェルゲルス主教(ヤン・マルムシェー)の手で盛大に葬儀が行なわれた。父オスカルの亡霊を目撃するアレクサンデル。 〈第三部・崩壊〉オスカルの遺言で劇場をひき受けたエミリーは、努力するが、一年後、不入りから空しく劇場から手をひくことにする。ある日、アレクサンデルは、母がヴェルゲルス主教と結婚することを母自身から聞き、ファニーと共にエクダールの家を去り、主教館に移った。主教の母ブレンダ(アリアンヌ・アミノフ)、妹ヘンリエッタ(カースティン・ティーデリウス)、そして病気で寝たきりの叔母エルサ(ハンス・ヘンリック・レールフェルト)を紹介されたエミリーと子供たちは、この主教館をつつむ暗い空気に驚く。さらに華美に生活することを恐れる主教は、彼女たちに質素な生活と精神生活を強いた。 〈第四部・夏の出来事〉翌年、別荘でくつろぐヘレナのもとにエミリーが訪れ、結婚は失敗だった、離婚したいが夫が許さないと、苦悩を訴えた。アレクサンデルは屋根裏部屋にとじ込められ、主教の娘たちの亡霊におびやかされる。 〈第五部・悪魔たち〉エミリーの訴えを気にしていたヘレナはイサクに相談し、イサクの計らいで、子供たちは脱出に成功、イサクの家に預けられる。子供たちに去られ、カールとグスタヴの訪問で離婚をほのめかされた主教は、夜、寝つかれず、エミリーに心情を吐露する。彼女は主教の飲物に睡眠薬を入れ、彼は眠りに陥った。その頃、エルサの部屋のランプが倒れ、館は火に包まれた。逃げ遅れた主教も焼死する。 〈エピローグ〉エミリーはなつかしい劇場を訪問した。春になり、マイはグスタヴ・アドルフの子供を産んだ。エミリーはストリンドベルイの新作『夢の戯れ』の台本をヘレナに渡し、いっしょに演じたいと告げる。その頃、アレクサンデルの前には主教の亡霊が現れるのだった。

キネマ旬報の記事 ▼ もっと見る▲ 閉じる

2010年12月上旬号

DVDがおもしろい!:DVDコレクション No.475 「ファニーとアレクサンデル」

1985年11月下旬号

ザ・セレクション:ファニーとアレクサンデル

1985年9月下旬号

外国映画紹介:ファニーとアレクサンデル

1985年8月上旬号

特集 ファニーとアレクサンデル イングマール・ベルイマン監督作品:作品評

1985年7月下旬号

グラビア:ファニーとアレクサンデル

1985年6月下旬号

試写室:ファニーとアレクサンデル

2018/09/14

2018/10/21

-点

映画館/東京都/UPLINK 
字幕


この物語の主題は何か?

ファニーとアレクサンデルという題名の通り、幼い兄妹二人が辿る数奇な運命を大河ドラマ風に描いて行くのかと思いきや、物語の各処で主人公達の話とはあまり関係が無さそうな、彼らの父方の祖母や兄弟夫婦のエピソードが入り、特に冒頭の第1部はほぼ父方の兄弟夫婦のキャラクター紹介みたいな感じになっているので、この4時間に及ぶ長編の中でこれらのエピソードが必要だったのか良く理解出来なかった。
ファニーが死んだ父親の幽霊を見ることができたり、継父の家から助け出してくれた男の家に幽閉されているのだが、念じることで人を死に至らしめることができる能力を持つ少年が出てきたりとオカルティックな設定もあるのだが、それらのエピソードもあまり前後の脈絡も無く唐突に入ってくるのでエピソード毎の関連性がうまくつながらず散漫な印象しか残らなかった。

2018/10/05

2018/10/05

80点

レンタル/東京都/TSUTAYA/SHIBUYA TSUTAYA/DVD 


ファニーの存在

ネタバレ

20世紀最後の巨匠と言われるベルイマン。数々の名作を残してきた大監督の集大成と言われる渾身の一作。5時間を超える本作には、ベルイマン映画の粋が全て詰まっている。厳しい牧師の家庭で育ったベルイマンは、彼の持つ疑問を常に作品に投影してきた。「神の不在」、「神の沈黙」は彼の中でおそらく永遠に答えは出ない。本作では「神の不在」「悪魔の脅威」「亡霊の存在」が、子供(アレクサンデル)の目線で描かれる。

本作で私が一番気になったのはタイトルの謎(?)だ。本作のタイトルは原作どおり『ファニーとアレクサンデル』。物語はほぼ10歳のアレクサンデルの主観で描かれているので、タイトルにアレクサンデルの名がつくのは分かる。それでは妹のファニーの名前が並列されるのは何故だろう?もちろん、ファニーもアレクサンデルと共に過酷な体験をするのではあるが、ファニーにはあまりスポットがあたらない(ように思う)。アレクサンデルだけでもいいように思うが、ファニーの名がつくのにはきっと何か大きな理由があるはずだ。そこを紐解くには、本作の男と女の描かれ方に大きなヒントがあるように思う。

本作の主人公一家、エクダール家は裕福だ。国民的大女優である祖母のヘレナは、夫亡き後、長きに渡ってエクダール家を取り仕切って来た。彼女は一家にとって絶対的な女王として君臨してはいるが、決して独裁的家長ではなく、深い愛情で家族を取りまとめている。ヘレナを代表とするように、本作に登場する女たちは皆強く、男たちは皆弱い。

ソニアの長男でアレクサンデルの父オスカルは、俳優として劇場を経営している。家族を愛し優しい性格だが、俳優という職業がら、どこか浮世離れしている。彼は舞台稽古の最中に倒れて死んでしまうが、アレクサンデルの前に亡霊として現れる。しかし母の再婚相手の虐待に苦しむアレクサンデルから「何もしてくれないなら、出てくる意味がない」と言われてしまう。オスカルの妻でアレクサンデルの母であるエミリーは、舞台女優として長年夫を支えてきた。夫亡き後、劇場を継ぎ女手一つで頑張るが、主教からの求愛を受けて再婚。ファニーとアレクサンデルを連れてエクダール家を出る。だが、ベルイマンの父をモデルにしていると言われているこの主教は、厳格すぎて妥協を許さず、幼い子供たちにも厳格な生活を求め、「愛」と称して体罰を与える。耐えきれなくなったエミリーは、ある時、主教の目を盗んでヘレナに助けを求める。彼女は言う、この結婚は間違いだったと・・・。夫が死んで新しい生活を求めた彼女に、主教は神に使える「意義ある生活」を説き、エミリーの心に質素な生活の理想を植え付ける。しかし厳格な生活は大人には耐えられても、子供には耐えられない。ましてやそれまで裕福で愛のある生活を送っていた子供には特に・・・。アレクサンデルは継父に憎悪を膨らませていく。エミリーは、自分の過ちを素直に受け入れ、何よりも子供たちの幸福を考える。そのために冷静に行動する理性を備えている。母の的確な判断がなければ、子供たちは主教から逃れられなかっただろう。

その再婚相手である主教は、エレクサンデルには悪魔のような存在だが、実は本作で一番可哀そうな人だ。彼が子供たちを虐待するのは、自らもそうやって育ってきたから。「愛のある体罰」は、彼の信念であり、それこそ神の教えだと心から思っているのである。だが彼の上に神は存在していたのだろうか・・・。彼はある事故で命を落とすが、はたしてその事故は不慮のものなのか、それともアレクサンデルが彼の死を願って強い「念」を送ったからだろうか?彼は死んでからも亡霊となってアレクサンデルにまとわりつく。もし神や悪魔や亡霊が存在しないものとするならば、それはアレクサンデルが罪悪感から生み出した妄想とも考えられる。アレクサンデルは主教の死の原因が自分にあると思い込んでいる。彼はこれからずっとその罪悪感に苛まれるかもしれない・・・。

オスカルの弟のカールとグスタヴもまた、愚かで弱い人間である。カールは莫大な借金を抱えており、アルコール依存症で常に妻に八つ当たりをしている。妻は夫の仕打ちに泣きながら耐えている。一見この妻は弱く愚かなように見えるが、カールは妻を罵りながらも、この妻がいなければ生きてはいけない。短気で好色なグスタヴは、妻公認の愛人を囲っている。自分の子供を身ごもった愛人に、お店を与えてやるなどしてご満悦だ。しかしそれもこれも女たちの広い心があってこその幸せなのだということにどうやら気付いていない。エクダール家のメイドだった若い愛人が、贅沢な生活を自分から要求して、女房面をしていたとしたら、グスタフの妻の怒りをかったことだろう。しかし愛人は自分の立場を承知し、グスタヴに何も要求しない。むしろグスタヴが自分に与えすぎることに不安を感じ、最後には子供と一緒に(ついでにグスタヴの長女と一緒に)都会へ出ることを決意する。グスタヴは女たちの掌の上で転がされている道化に過ぎないのだ。

さて、このようにエクダール家は強くて賢い女たちに支えられている。ここで先の疑問に戻ろう。本作のタイトルが何故『ファニーとアレクサンデル』なのか。繊細で感受性の高いアレクサンデルに比べて、ファニーは兄より神経が太いように思われる。子供らしからぬ無表情に、力強い眼差し。父の死に恐怖を感じるアレクサンデルに対して、ファニーは決然と死にゆく父の枕元に立つ。母の再婚によって主教館へやってきた際も、アレクサンデルよりも新しい環境になじむことができていたと思う。もちろん兄同様、主教を憎んでいたことは確かだろうが、兄のように反抗的な態度は見せない。しかし決して兄を裏切る言動はしない。もしファニーがこのまま主教の元で生活したのなら、要領よく(こずるく)立ち回り、表向きには主教の言いつけを守って品行方正な優等生として育ちながらも、心の中で憎悪を募らせてゆくだろう。そうして主教に対する復讐を虎視眈々と狙うことだろう。その復讐は、アレクサンデルのように死を願って「念」を送るというようなものではなく、味方になる大人を見つけ、主教の化けの皮をはぎ、彼の地位を失墜させるような手立てを考えられると思う。

このようにファニーとアレクサンデルは「対」をなしているのだ。だからこそ本作は『ファニーとアレクサンデル』というタイトルが付けられたのだと思う。ラストではエクダール家に再び幸福が戻って来た様子が描かれるが、大団円とはいかない。シェイクスピアのような古典芝居より新しいスタイルの演劇が求められ、若者たちはこの家を去る・・・。華やかなエクダール家を見ると、栄枯盛衰という言葉が浮かんでくる。やって来る新しい時代を、ファニーとアレクサンデルはどう生きるのか?おそらくどんな時代の波が押し寄せようとも、繊細で神経質なアレクサンデルをファニーが支えていくだろう。私には大人になった彼女の、意志の強い姿を容易に想像することができる。

2018/08/25

2018/08/25

100点

映画館/神奈川県/横浜シネマリン 
字幕


深田晃司が語るベルイマン映画

 東京から始まった「ベルイマン生誕100年映画祭」が横浜にもやって来た。映画祭の自分にとってのクライマックスである本作の鑑賞を横浜でも果たした。私はこうして少し浮かれているが、深田晃司によると、日本におけるベルイマン映画の受容は蓮實重彦の低評価のために遅れたという。一評論家にそこまで影響力があるとは思わないが、特集上映が少なかったのは事実であろう。それだけに今回の特集上映は感慨深い。
 上映後の質問コーナーでベルイマン映画との共通性を問われた深田晃司は謙遜しながらも「三人称の視点で人物をフラットに捉え一人の人物の感情に寄りかからない」点を挙げていた。
 本作については、演劇性・日常性・モノローグの各「レイヤー」での演技のあり方が観客の有無・伝えたい相手との関係性等に基づいて多層的に展開され、それが本作の鑑賞を充実した豊かなものにしているという。特にモノローグの演技の巧さは無神論者のキャラクターも含めて「神との対話」を意識してきた欧米の「自意識」に基づく映画ならではと評価した。

2018/07/28

2018/07/29

100点

映画館/東京都/YEBISU GARDEN CINEMA 
字幕


解析マイベスト

  本作については日本初公開時に岩波ホールで2回観たが、それ以来33年ぶりの鑑賞である。本作を観るまではマイベストムービーは「地獄の黙示録」だった。そして33年間順位の変動はない。
 本作の鑑賞で一番印象に残るのは、33年前も今回も、エクダール家とヴェルゲルス家の精神的貧富の格差である。物質的貧富の格差ではない。ヴェルゲルス家も物質的に貧しいというわけではない。だがヴェルゲルス家の精神生活は酷く貧しく感じられる。これは何故だろうか。
 清貧を望む信仰のためだろうか。だが、物質的に豊かでなくても、せめて精神的に豊かに、あるいは、物質的に豊かさよりも、精神的に豊かさを、これらが宗教の出発点の一つではないのか。それが宗教によって精神的に貧しくなるとしたら何のための信仰なのだろうか。宗教に対する根本的な疑問、本作の背後にはこれが流れている。
 プロローグ、大邸宅にただ一人、アレクサンデル・エクダールが存在する。彼は、霊的存在を感知する幻視能力者である。強い幻視能力者は宗教家か芸術家になる。アレクサンデルは芸術家になりそうである。
 本作の前半はエクダール家の物語である。本作の主人公、アレクサンデルにとっては長いプロローグのようなものである。第1部:エクダール家のクリスマスで始まり、第2部:亡霊を経て、第3部:崩壊へと至る。劇場主のオスカル・エクダールを中心として、もと女優の母ヘレナ、大学教授のカールと菓子店を経営するグスタヴという弟二人が主要人物として配置されている。
 大家族の物語をわかりやすくするため、堅実な性格のオスカル、悲観主義者のカール、楽観主義者のグスタヴと特徴的な性格付けがなされている。社会的には大学教授のカールはインテリで商売人グスタヴは口八丁のはずだが、家庭内では二人とも粗野なだけの人物のようになっている。これがいかにも内輪の物語という小世界観を強めている。
 エクダール家という世界は小さいが大らかで精神的にも豊かである。劇場を経営しているのが貢献している。演劇的生とでも呼ぶべきだろうか。家族の中での役割を演劇的に果たすことを楽しんでいる。
 エクダール家の平和も自然に達成されているわけではなくオスカルの努力によるところが大きい。母ヘレナが述べたように家族の中の役割を熱心に果たす人とそうではない人がいるが、オスカルは前者の人物だった。そのオスカルが死ぬとエクダール家の平和も崩壊へと向かう。
 アレクサンデルは、自分の幻視能力に戸惑っている。自分たちを心配して現れたオスカルの幽霊にも迷惑そうである。
 本作の後半はアレクサンデルの物語である。第3部:崩壊の途中から始まり第4部:夏の出来事を経て、第5部:悪魔たちへと至る。アレクサンデルを中心として、母で女優のエミリー、妹のファニー、そして何より対立するヴェルゲルス主教が主要人物として配置されている。
 オスカルの死によるエクダール家の平和の崩壊はその死に一番衝撃を受けた人物から始まった。衝撃の余波かエミリーはヴェルゲルス主教と結婚する。依存心の強いエミリーはヴェルゲルス主教に対して「あなたを通してすべてを知るのね」と言い、ヴェルゲルス主教はその言葉を受け入れる。このやり取りには、人間関係の不健全さ以上の意味がある。
 真実は神からもたらされ、その神の前に信者個人が直接に対面する。牧師は信者の横に立つだけである。これが個人主義を生み近代社会の母胎ともなったとも言われるプロテスタンティズムの精神である。誰かを通して真実を知るのならば、その人物がカトリックにおける教会になっていることになる。
 結局、ヴェルゲルス主教は厳格な信仰者の仮面をかぶっていただけの悪しき人物だった。こういう人物の支配下にあるヴェルゲルス家の精神生活が酷く貧しく感じられるのは当然と言うことになる。宗教に対する根本的な疑問を脇に置きヴェルゲルス家のことだけを考えれば信仰の形骸化が精神生活の貧しさの原因である。
 これに対して生きた信仰も本作には登場する。アレクサンデルとファニーは、ヘレナの昔からの友人イサクの計らいで、ヴェルゲルス家からの脱出に成功し、イサクの家に滞在する。このとき、アレクサンデルはイサクによる本の一節の朗読を聞く。「ヘブライ語で書かれた本」というのはタルムードだろうか。それにしては物語性が強い。しかも朗読と言うより暗唱している。特定の一節が物語に発展しそれを人生の折々で何度も反芻して暗唱できる状態になっているということだろう。これこそが生きた信仰である。
 アレクサンデルは、自分の義父の死亡を願っている。その願望がかなったかのように義父の死を目撃する。彼の幻視能力が悪しきものを招いたのだろうか。
 エピローグ、エクダール家の平和は回復した。新たにエクダール家の中心となったグスタヴは、彼らしく、素朴な家族主義に基づいて、エクダール家の未来を語る。まるで産めよ増やせよの原始宗教のようでもあった。だが、近代社会においては楽観的過ぎたようだ。愛人マイ絡みで一波乱ありそうだ。
 家族の問題が解決してもアレクサンデル個人の問題が解決したわけではない。彼の幻視能力が因縁の悪霊を招く。
 最後に解題をする。『ファニーとアレクサンデル』は「ファニー」と「アレクサンデル」に分解されるわけではない。「ファニーとアレクサンデル」と「アレクサンデル」に分解される。アレクサンデルは全体の主人公だから二重化されている。ファニーは単独では意味を成していない。ファニーは、プロローグでは名前が呼ばれるだけで登場せず後半の主要人物とするにも疑問が残るぐらいである。
 では「ファニーとアレクサンデル」は何を意味するのか。これはエクダール家を意味している。もっと言えばエクダール家の未来を象徴している。本作では家族主義が肯定的に描かれている。家族主義と言っても保守的なものではなく未来志向のものである。それがエクダール家の若い世代を代表する「ファニーとアレクサンデル」となっている。

2018/01/05

2018/01/05

-点

購入/ブルーレイ 
字幕

巨匠イングマール・ベルイマン監督作品。アカデミー外国語映画賞受賞。
主人公アレクサンデルと妹ファニーの祖母ヘレナは、元スウェーデンの国民的女優。彼の父で俳優兼劇場オーナーのオスカルの他に、大学教授のカール、菓子屋のグスタフの3人の息子がいる。それぞれの家族や使用人も含めた大家族は結束が固く、定期的に集まっては宴を開いていた。
ある日、芝居の練習をしていたオスカルが突然倒れ、帰らぬ人となる。アレクサンデルの母エミリーは、夫亡き後けなげに劇場をまとめていたが、いろいろと相談に乗ってもらっていた教会の主教エドヴァルドに惹かれ、1年後、子供たちを連れて身ひとつで嫁いでいく。実際に暮らしてみるとエドヴァルドのサディスティックな性格が明らかになる。虐待に近い扱いを受ける子供たち。エミリーは離婚を申し立てるが、法律を盾にエドヴァルドは首を縦に振ろうとしない。家族の苦境を耳にしたヘレナの旧友イサクは、非合法手段に訴え子供たちを救出。エドヴァルドは、エミリーが飲もうとしていた睡眠薬を飲み、昏睡状態のまま火事に巻き込まれて焼死する。
久しぶりに一族が揃って晩餐会が開かれ、一族の明るい未来を暗示して物語は終わる。
エンディングで、祖母ヘレナが、次回劇場にかかる芝居の原作をアレクサンデルに読むシーンがある。”どんなこともあり得る。何でも起こり得る。時間にも空間にも縛られず、想像の力は色あせた現実から、美しい模様の布を紡ぎ出すのだ・・・”本作は、まさにこの言葉に集約されるような作品。ある大家族の生活を豪華絢爛に贅を尽くして描いている。室内シーンひとつをとっても、家具調度のひとつひとつに気を配って並べている様子が窺える。また、基本的に定点での撮影が多いのだが、どこから人物が登場し、どこでアクションを起こし、どう退場するかというところまでがしっかりと計算されている。まるで舞台上の演劇のようである。
アレクサンデルは、よく亡霊を見る。最初は単に彼の想像力を映像化しているのかと思ったが、どうやら本当に幽霊が見えているようで、特に亡くなった主教の娘たちとの会話は面白い。
5時間20分にも渡る上映時間。全く飽きないでと言うと語弊があるが、観客を引き付ける力はかなりのものだった。

2016/07/11

2016/07/11

80点

レンタル/神奈川県/TSUTAYA/TSUTAYA 日吉中央通り店/DVD 
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長ーい長ーい群像劇

5時間見れるかなと心配しながら、ブルジョア エークダール家をアレクサンデル中心の視点で描いた群像劇。最初から3部くらいまでは、ややだれ気味で見たが、4部からミステリー・ホラー傾向となり面白くなった。権威主義のキリスト教を否定するベルイマンらしさか。