徳川十一代将軍の頃、南部藩と津軽藩は国境の檜山をめぐり争い続けてきたが、折しも検地の南部藩家老尾崎富右衛門が津軽藩士の手に仆れた。将軍家の裁決は陰謀をめぐらす津軽藩の思うところとなった。水戸家指南役平山士竜の師範代、尾崎秀之助は富右衛門の一子。この報せを聞き圧政に泣寝入りする訳に行かぬ、と単独で檜山を奪還、父の仇を討つため相馬大作と改名、津軽侯に天誅を加えんと出陣し、津軽藩主土佐守の馬丁になりすまして機会を待った。ある日、隙を狙って土佐守に檜山返還を迫ったが果せず土佐守を刺した。大名の変死はお家断絶とあって津軽藩は土佐守を病死とみせかけ越中守安親を養子に立てるべく躍起となったが、大作は町々に土佐守誅害の貼紙を散布した。慌てた津軽藩は忍びの伝兵衛を遣わし、大作を殺害しようとした。大作はいったん行方を昏ましたが、世継ぎ越中守が将軍家目通りに出府するのを津軽街道に待伏せ、大砲を打ちかけた。しかし事前にこれを察知され、危うく逃れる。大作は神宮寺川で再び越中守を襲ったが、これも失敗。しかし一方の津軽藩も将軍目通りの日が迫ると焦燥の極に達し遂に大作もろとも平山道場爆破を決意した。伝兵衛がその任に当ったが発覚、彼は捕われた。が大作の釈放に伝兵衛は恩を感じ、越中守が将軍目通りのため津軽屋敷を出る時刻を密告した。越中守将軍目通りの日、大作は津軽藩鉄砲隊の追撃を避け屋敷に乗込んだ。大作は越中守に短銃を向け「檜山返還、悪政中止」の誓文書に署名を迫り、門外に待受けた水戸家の駕籠に乗り込むや津軽藩士の驚く中を悠々去った。宿願を叶えた大作は水戸公の懇願で江戸追放となった。