1900年の北清事変で清朝は八カ国連合軍の圧力に屈した。このとき清朝政府の役人の妻だった秋瑾(李秀明)は、祖国を救うという決意のもとに夫と二人の子供を残して日本に留学する。当時の日本には多数の清国留学生がおり、彼らは本国政府の直接の圧力のない日本で祖国の革命を語り、革命の志士となっていった。秋瑾は、徐錫麟(李志興)や陳天華(陳西光)などのブルジョワ革命家と交際し、日本人で中国革命家たちの盟友であった宮崎滔天などとも友情で結ばれる。帰国後、彼女は雑誌『中国女報』を発行して反封建の闘争を始め秘密運動を組織し、さらに武装した革命光復軍を作った。1907年、同志の徐が安徽省の役人を射殺しての放棄に失敗。その二か月後、秋瑾は清朝政府に逮捕され公開で銃殺刑に処せられる。