アイルトン・セナはブラジルの裕福な家庭に生まれ、4歳でレーシング・カートを始めた。南米ナンバー・ワンになった彼は、20歳でヨーロッパに渡り、F1レーサーになる。デビュー5戦目のモナコGPでアラン・プロストに次ぐ2位となったセナは、翌年ロータス・チームに移り、ポルトガルで初優勝する。1987年、セナはロータス・ホンダでモナコGP初優勝を飾る。翌年、ホンダはマクラーレンと組み、プロストとセナを擁する必勝体制となる。セナは鈴鹿の日本GPで優勝し、念願の世界チャンピオンに輝く。バブル景気真っ只中の日本では大金がF1に流れ込み、人々はF1ブームに酔いしれた。セナはスーパー・スターとなるが、プロストとの溝を深めていく。1989年、2人は鈴鹿の日本GPで対決する。プロストはシケインで、後方から迫るセナに体当たりをする。セナは1位でゴールするが、シケインを通過しなかった罪で失格となり、プロストがチャンピオンとなる。さらに、FISA(国際自動車スポーツ連盟)会長ジャン=マリー・バレストルは、翌年のセナのスーパー・ライセンス発給を停止した。セナは引退も考えたが、1990年、FISAに謝罪してF1に戻る。セナは、フェラーリに移籍したプロストと鈴鹿で王座決定戦を迎える。スタート直後の1コーナーで両者共にリタイアした瞬間、セナの世界チャンピオンが決定した。セナは翌年も世界チャンピオンに輝く。しかし1992年、ハイテクを導入したウイリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルが優勝、翌年はそのマシンに乗ったプロストがチャンピオンになり、引退する。セナは待望のウイリアムズに移籍するが、FIA(国際自動車連盟)はハイテクを禁止する。1994年春のサンマリノGPは、予選、決勝を通じて死傷者が出る呪われた大会となった。5月1日、7週目に入ったセナのマシンはコンクリート・ウォールに激突する。病院に搬送されたセナは、そのまま帰らぬ人となった。