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私も映画学校出身だが今回紹介する五作品を見ても「うわー懐かしい」という感想は一切持たなかった。私も卒業するときに卒業制作と呼ばれるものを作ったが、恥ずかしいほど切実な気持ちを主人公に投影して作っていた為、見返すのにはだいぶ勇気がいる。しかし今回紹介する作品はすべて、技術的にも、劇場公開されている作品と遜色がないほどレベルが高い。時間と労力を割いて丁寧に撮影されているし、題材に対して冷静な距離があって、なんだかとても大人っぽい。これから活躍していくであろう新人監督達の作品に対し、私が感じたことを書いていく。
「金色の野にさよなら」「ふたりで別の歌を」は、序盤で肉親が急死することにより物語が展開していくことや、フィルムで撮影されていることなど共通項が多い。主人公の少女と母親の心情や葛藤、現在と過去が行き交う物語をシンプルに45分で語りきった構成力に、監督しての力量を強く感じた。完成度は高いが、どちらも破綻なく綺麗すぎる感があり、あと一歩何かがほしいと思った。題材に対する作者の思い入れのようなものがほとんど伝わってこないのである。なぜこの物語を今作る必要があったのだろう?
「ふたり、ふたつの再見」と「独裁者、古賀。」もとてもよく似ている。サブカル趣味(前者はカメラ、後者は落語)を持つうだつが上がらない男子と自分の趣味に興味を示してくれる女子(ここで作者が男性であることがはっきりしてしまう!)との幸福なひと時と別れの物語。
しかし、映画の面白さは筋ではないということがこの2本を比べればはっきりする。前者の主人公には枷がない。女子との間を邪魔をする他者が存在しない。そういう物語的な仕掛けを全く作ろうしないのは、無理に葛藤を作り出すという物語の嘘に対する懐疑なのだろうか?だが嘘をつく勇気がなければ、映画を作っていないのと同じことになってしまうのではないだろうか。
後者はどうか。貪欲に最後まで映画の至るところに様々な嘘=仕掛けを用意する。さらに素晴らしいのは、いじめられている主人公の男の子が、他の場所ではその感情を一切引きずっていないように見えるところだ。演じる清水尚弥の表情が素晴らしい。非常にユーモアがあり、作者の哲学や個性を隠さずに出している。どの役者も自己の存在を把握して生き生きとを演じているので見ていてとても楽しかった。
そして、「侍心-SAMURAI HEART-」という企画には嘘をつこうという意志を強く感じて、興味深くみた。だが、嘘にはありきたりなイメージを突き抜ける力がほしい。
似た構造の作品が続いたことは、決して偶然ではないように思う。私が面白いと思う映画は、誰かの強いモチベーションを発端にして作られた、オリジナリティ溢れる作品だ。私ももっとその理想に近づきたい。お互い頑張りましょう。
私はマスコミの学校に通っていたが、そこで教わったことは実際の現場ではひとつも役に立たなかった。私はそこで、「本当に撮るべきものや進むべき道は誰かから教わることではない」ということを教わった。そして映画制作とは、機材の種類や撮影方法、シナリオの書き方なぞは実は二の次で、重要なのは“どう”撮るかではなく、“何を”撮り、“誰に”観せるかなのだ。 拝見した5本の作品について感想を述べたいと思う。
「ふたり、ふたつの再見」。台詞が多い上に陳腐。なぜ中国なのかは考えたら負けか。二人が縦に並んで歩いているバックショットは良かった。もうこれしかない!というカットをもっと観たかった。
「侍心―SAMURAI HEART―」。冒頭は無駄に堂々としていて笑った。安い台詞や感動に走らず、最後までバカバカしさを追求してほしかった。
「独裁者、古賀。」。良かった。伝えたいことの本質を何か別のテーマ或いは全く別の言葉に代えてスクリーンに託すことが脚本の真髄なのだと再認識させられた。
「金色の野にさよなら」。空気感と物語の切り取り方は好きだが、綺麗すぎてあまり記憶に残らないのが残念。短篇ならではの何かが欲しかった。
「ふたりで別の歌を」。役者も演出もよくできていて物語も面白い、もはや商業レベルだが、いまひとつ人間味に欠ける。
五作品の共通点は映画の学校に通った人が作ったということ、全てには当てはまらないが台詞が陳腐だということ、上手に撮れているということ。しかし美しく撮れているばかりで、その根底にあるはずの監督の魂に触れることは残念ながらできないのである。つまり、学校に行こうと行かなかろうと技術やお金があろうとなかろうと、結局は他の何を捨てても撮りたいものがある人間だけが最終的に人の心を動かす作品を生み出すことができることは間違いないようだ。そしてそれは映画に限らずあらゆる表現においての大前提であると言える。まあ、他の何を捨ててもなんて暑苦しい根性論はどうやら流行遅れらしく、私なんぞはどんどん路頭に迷いこむばかりである。
いまはカメラを構えれば、それこそ携帯電話ひとつあれば誰でも映画監督になれる時代で、作るどころか世界に向けて発信することも可能だ。しかしそんな時代だからこそ何を撮るべきなのか、その先に何を望むのかをより明確にしなくてはならない。「映画という拳銃をどこに向けるのか?」を考え続けることが、私を含め彼らの一番の課題なのである。