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キネマ旬報 創刊95周年☓KINENOTE 特別企画 表紙でふりかえるー私の思い出の一冊

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日本映画衛星放送 堤靖芳 1970
広島サロンシネマ・シネツイン・八丁座 館主 蔵本順子 1970
代官山蔦屋書店 吉川明利 1973
「午前十時の映画祭」事務局 岡村尚人 1974
キネマ旬報元編集長 植草信和 1975
シネマ5 支配人 田井 肇 1976
映画検定1級 上妻祥浩 1983
映画評論家 北川れい子
映画評論家 尾形敏朗
映画評論家 森直人
Bunkamura ル・シネマ プログラミング プロデューサー 中村由紀子 1994
キネマ旬報編集本部長/元編集長 青木眞弥 1996
山下書店東銀座店店長 古川努 1997
パルコブックセンター渋谷店 雑誌担当 中澤佑 1999
キネマ旬報出版編集部 前野裕一 2007
映画評論家/映画検定1級 松﨑健夫 2011
新文芸坐支配人 矢田庸一郎 2011
キネマ旬報編集長 明智惠子 2013
表紙でふりかえるキネマ旬報

表紙でふりかえるキネマ旬報』(10月29日発売/A4判/1500円+税)

1919年に創刊された世界で最も歴史のある映画雑誌『キネマ旬報』。戦後復刊されてから現在まで、表紙からその歴史をふりかえる完全保存版の一冊。約1700点にもおよぶ表紙から、その当時ヒットした作品、人気のあった俳優や映画の流れが分かる、キネ旬を知るオールドファンには懐かしく、若い人たちには新鮮に映る、時代を彩った表紙の数々をさまざまな角度から紹介。創刊100周年に向け新たな一歩を踏み出した、キネマ旬報の記念出版物第一弾。 

  • コメント
  • 表紙としては、写真も使われず、色使いも地味な増刊号ですが、中学3年生だった私が小遣いを貯めて買ったこの号は、サイレント期から60年代までの映画史上の重要作への興味を見開かせてくれたバイブルでした。
  • 解説
  • 現在は映画評論家として活躍されている小藤田千栄子氏が編集にあたった、1970年当時、最もページ数がある(396頁)キネ旬出版物となった映画事典。邦洋問わず五十音順に、タイトル/製作会社/製作年/あらすじ/解説/公開年などが、約300文字にまとめられている。出版までの大変な苦労が、小藤田氏による編集後記から偲ばれる。1970年、高度経済成長のまっただ中、一社では配給系統を維持できなくなった日活と大映が共同の配給会社を設立。斜陽産業の映画業界を象徴する出来事として注目された。日本映画のベスト・ワンは山田洋次の「家族」。高度成長から取り残された炭鉱労働者の家族を描き、経済成長が人間を幸福にしていないことを浮きぼりにした。外国映画では「イージーライダー」「明日に向かって撃て!」など、アメリカン・ニューシネマがベスト・テンを賑わせる。
  • コメント
  • イタリア映画の小品「ガラスの部屋」が表紙であるのが、画期的な印象として残る。アメリカン・ニューシネマ・ブームの中、本作の主演男優と主題歌が一部で大受けであったのが、時代にいろどりを見事につけていると、今、強く感じられる。
  • 解説
  • “ネオ・レジスタ”というイタリア映画のヌーヴェル・ヴァーグとも呼ばれる、新しい監督たちによる作品とその思想を、「ガラスの部屋」を中心に読み解こうという座談会による特集。表紙はその主人公を演じたレイモンド・ラヴロック。“ネオ・レジスタ”がブームとして長続きしない理由が、この座談会ですでに指摘されている。1970年の洋画では、アメリカン・ニューシネマが活況を呈し人気を集める一方、ヨーロッパの監督たちの独自性の強い作品も多く公開された。日本映画では山田洋次の「家族」がベスト・ワンに輝く。続く2、3位は「戦争と人間 第一部・運命の序曲」「どですかでん」と山本薩夫、黒澤明の明治生まれの巨匠たちが健在ぶりをアピールした。
  • コメント
  • 思い返せば、この号で洋画の見かたを初めて教えてもらったのだと思います。グラビア映画雑誌しか見ていなかった自分に1本の作品をここまで詳しく分析する【教科書】があったんだ!と衝撃を受け、以来お世話になっております!
  • 解説
  • 日本公開が実に5度目となる「駅馬車」のコラージュが表紙の号。ニュープリントでの上映ということで、作品の魅力をグラビア、座談会に完全再録と銘打ったシナリオで改めて徹底特集。座談会の記事は下段に、上段には当時興行評論家を名乗っていた黒井和夫氏の『日本ヘラルド映画論』が8ページに渡って続くという、今見ると少し変わったページ構成が目を引く。1973年、日本映画では東映が任俠映画から実録路線へ。「仁義なき戦い」シリーズが連続ヒット、ベスト・テンの2位「仁義なき戦い」、8位「仁義なき戦い 代理戦争」がランクイン。外国映画は「スケアクロウ」が第1位、テレビ映画ながら日本では劇場公開されたスピルバーグの「激突!」が8位に入る。なお、興行では入場税軽減により63年に次ぐ352億円の配収と復調を示した。
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  • 怒り満面の巨大石像が空中に浮かぶ表紙の号、大学に入った頃古本屋で入手。中三の時TVで見て以来、難しくて全然分からなかったブアマン作品を、今号で石上三登志さんが長文評で鮮やかに読み解いていて目からウロコの面白さ。映画評を読むのが好きになりました。
  • 解説
  • 空に浮かぶザルドスの石像が印象的な、「2001年宇宙の旅」に対抗するジョン・ブアマンの「未来惑星ザルドス」が表紙の号。ショーン・コネリーが主演しているが、メジャー作品とは一線を画す難解なSF。石上氏によるキーワードを挙げた作品解説と、評論家たちの座談会によって徹底解明が為されている。本作には、20代のシャーロット・ランプリングも出演。1974年の日本映画ベスト・テンの上位4作品が、原作の映画化。2位の「砂の器」は、洋画系劇場で1本立てロードショーという当時としては珍しい興行形態をとり成功。外国映画では、「燃えよドラゴン」 (実際は73年の12月)でブルース・リーがカンフー・ブームのきっかけを作る。また、ウィリアム・フリードキンの「エクスシスト」が大ヒットした。
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  • 「七人の侍」シナリオ掲載号で、あまりの迫力と面白さに興奮して校正した。表紙と巻頭特集は「JAWS」で、大型ポスターを挟み込んだ豪華号だ。平均年齢26歳(くらい)の編集部員も若く、雑誌にもパワーが漲っていた。
  • 解説
  • スピルバーグの「JAWS ジョーズ」が印象的な表紙の号。監督を語るうえで外すことの出来ない本作を、32ページに渡り大特集をしているが、これ以上の特集をしていたのが、オリジナルニュープリントで約20年ぶりに上映の「七人の侍」。シナリオ部分38ページ、そのほか合計で58ページの大特集。1975年は初めて邦・洋画の配給収入が逆転した転換期。日本映画の新作が苦戦するなか活気をみせたのが、“阪妻映画祭”であり、「飢餓海峡」そして「七人の侍」のノーカット・リバイバル上映であった。またこの年、黒澤明のソヴィエト映画「デルス・ウザーラ」が公開。モスクワ映画祭最優秀作品賞受賞、アカデミー賞外国語映画賞に輝いた。
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  • 「読者の映画評」に何度も投稿し一次選考通過しかできなかったキネマ旬報に初めて自分の文章が載った号。当時の編集長・白井佳夫氏がゲスト参加した第1回湯布院映画祭の報告を書かせていただいた。
  • 解説
  • チャップリン、キートンに並ぶ三大喜劇俳優のハロルド・ロイドの有名なワンシーンを、和田誠氏がイラストにした表紙。ジャッキー・チェンが「プロジェクトA」で見せた時計台から落下するアクションはこれが元ネタ。この年にロイドの作品を連続上映するのに合わせ、淀川長治×渥美清×和田誠の鼎談でその魅力を語り明かしている。また、この号の広告に「愛のコリーダ」オリジナル版を見るパリのツアーが掲載。8日間26万円は、当時としてはかなりの高額。1976年、角川書店が映画製作に乗り出し、その第一作「犬神家の一族」が大ヒット。一方外国映画では、前年から公開の「JAWS ジョーズ」が当時としては史上最高の51億円の配給収入をあげる超大ヒット。この数字は6年後の「E.T.」によって塗り替えられる。ベスト・ワン作品は「青春の殺人者」と「タクシードライバー」であった。
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  • 中学3年生の時、生まれて初めて買った号。怪獣映画をきっかけに東宝映画全般に興味が広がっていった頃の特集号だったので、資料としてもかなり重宝しました。東宝映画の多彩なカラーを見事に表現した表紙だと思います。
  • 解説
  • 東宝創立50周年を記念し、東宝作品の名シーンから俳優たちを集めコラージュした表紙。約80ページの大特集。これを読めば東宝の歩みが全て分かる、まさに保存版的一冊。この特集のすぐ次のページに、松竹の「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」が紹介。お正月映画として定着したシリーズも本作で30作目。田中裕子をヒロインに、沢田研二がゲスト出演。1983年、日本映画では「南極物語」が大ヒット、外国映画では前年12月から公開の「E.T.」が引き続きヒットを続け、興行では盛り上がった年であった。ベスト・テンの1位は「家族ゲーム」と「ソフィーの選択」。松田優作は主演男優賞を獲得し、翌年の2月下旬のベスト・テンの特集号の表紙を飾った。また、伊丹十三は俳優として区切りをつけ、翌年「お葬式」を撮り監督に転身した。
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  • Bunkamuraが89年にオープンし、上映作品が表紙になった初めての号だったと思います。「トリコロール」は敬愛するキェシロフスキ監督の代表作で、同号にインタビューも掲載され、来日時のスキーで骨折した包帯姿を思い出します。その後、病に倒れあまりにも早く逝ってしまわれたのが今でも残念です。
  • 解説
  • クシシュトフ・キェシロフスキの「トリコロール」に主演した3人の女優が表紙の号。この号ではそのうちのジュリエット・ビノッシュ主演の「トリコロール 青の愛」を特集。監督のインタビューでは引退を示唆する気になるコメントを残しているが、実際に引退を表明。その後復帰を宣言するものの、96年に急逝。図らずもこの三部作が遺作となった。1994年、日本映画の興行1位が「平成狸合戦ぽんぽこ」など、アニメが配給収入の50%以上を占めるという特筆される年に。ベスト・ワン作品は「全身小説家」。パンフレット代わりに制作した小社の書籍が劇場でよく売れた懐かしい記憶も。外国映画のベスト・ワンは初の女性監督作「ピアノ・レッスン」。
    また、スピルバーグの「シンドラーのリスト」が公開され話題となった。
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  • 渥美清が亡くなったのが1996年8月4日。印刷スケジュールを考えれば実質2~3週間の短い期間に、40ページ近い追悼特集を、とにかく編集部員総出で作った。同じく総出で作った「黒澤明監督追悼特集」とともに思い出深い編集長時代の号。
  • 解説
  • 寅さんを演じ続けこの世を去った、渥美清の追悼号。山田洋次、浅丘るり子など所縁のある人々の、悲しみのなかにも愛情あふれる言葉が寄せられた『お別れの会』のルポからはじまる総力特集。生前親交の深かった黒柳徹子さんへの取材記事、『本当は渥美さんのことはお話ししたくないけど、お兄ちゃんは本当に映画が好きだったのでキネマ旬報ですからお話ししているわけです』という言葉が重い。1996年の日本映画のベスト・ワン作品は「Shall we ダンス?」のエンタテインメント系が、外国映画は「イル・ポスティーノ」のミニシアター系が選出。また、事実上倒産したにっかつが社名を日活に変更し再スタート。「愛する」を製作した年であった。
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  • 書店員の立場から振り返ると’97年年3月下旬号「エヴァンゲリオン特集」が、私が経験した店の中では過去一番売れた号であったと思う。TV版再放送後アニメ誌以外にもエヴァが表紙・特集に登場。特に貴誌は映画公開前の発売だったいうこともあり売れは突出していて社会現象を肌で感じた。
  • 解説
  • 社会現象にもなったTVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版を表紙・巻頭特集した号。キネマ旬報ベスト・テンが掲載される2月下旬号を別にすれば、この年一番売れたキネ旬。この時、エヴァの表紙ならなんでも売れると言われたが、公開直前に発売された本誌はとにかく売れた。1997年、いわゆる渋谷系と呼ばれるミニシアター映画が人気を集める一方、名画座の老舗・文芸坐が閉館し、シネコンが続々オープンをするなど変化が一段と進行した年であった。興行では、「もののけ姫」が111億円の配給収入に達し「E.T.」の記録を超え、ジブリのアニメの人気は不動のものとなる。この年からベスト・テンのトロフィーは、ワダエミさんデザインのものに一新。アカデミー賞より歴史のある賞にふさわしいトロフィーが、その年を代表する監督、俳優の手に。
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  • 淀川さんの「コワいですねぇ」「オソロシイですねぇ」という日曜洋画劇場での解説の名調子で映画の面白さを教えられたものにとって、この追悼特集のにこやかな笑顔は優しさの中にどこか寂しさ、厳しさがあふれているようで印象的でした。
  • 解説
  • 最後の言葉は「もっと映画を見なさい」だったという、映画の魅力を伝えつづけた淀川さんの追悼特集号。前年の11月に亡くなり、1月下旬号というのは時間がかかったように感じられるが、実際は年末進行で年内の校了、実質1カ月もないなか編集部が総力をあげた号。氏の旬報(キネ旬ではなく旬報と呼んでいた)に対する思い入れはひとかたならぬものがあり、大正8年の創刊号から愛読、旬報に入るつもりで立ち寄った『映画之友』の社長から、机とペンみんな用意しているからと押し切られ旬報に入れなかったという裏話も。1999年、シネコンは増加を続け、新作の上映が2週遅れという慣例が崩れ始める。「スター・ウォーズ」新三部作が公開開始。テレンス・マリックが20年の沈黙を破り「シン・レッドライン」を発表。
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  • 吉岡秀隆さんから山崎貴監督まで総勢11名が、本誌のために記者会見のあとで近くのお店に移動してくれて撮影した写真。東宝宣伝部の方とカメラマンと事前にロケハンしたりして周到な準備をして臨んだ撮影でしたが、みなさん揃って表紙ということを大変喜んでくれたので、苦労のかいがありました。
  • 解説
  • 2005年に大ヒットした前作「ALWAYS 三丁目の夕日」の続篇にあたる「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の出演者・監督の貴重な撮り下ろしが表紙。
    主演の吉岡秀隆さんのインタビューをはじめ、主要キャストのコメントのほか、作品をさらに楽しむ記事として“皇太子御成婚”、“東京オリンピック決定”など、舞台となった昭和34年がわかる小事典付き。2007年、「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は前作を超える45億6千万円の興行収入を上げ、この年の日本映画興収の第3位。外国映画の第1位は「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」が109億円。2位「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」が94億、3位「スパイダーマン3」が72億円と、前年に日本映画に興収で抜かれた外国映画が再び逆転した。
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  • 我が執筆記事が、本誌に初めて掲載されたのは此の号。然しそれ以前、<本名>が、2009年6月下旬号に”作品のスタッフ”として掲載されている。更に遡ると、まぁ色々あるのだが…中には「松健夫」なる誤記まであるのは御愛嬌。
  • 解説
  • 「ヒア アフター」のイーストウッドが表紙の号。デビュー作から見続けている小林信彦氏と芝山幹郎氏がその魅力を存分に語った特別対談を掲載。恒例となったアカデミー賞の予想座談会も13回目を迎える。その他、『韓国映画は本当に面白いか!?』という扇情的なタイトルで、阪本順治×寺脇研が対談、キアロスタミのインタビュー・文を松﨑氏が担当した。2011年、東日本大震災という未曽有の災害に襲われるなか、「ヒア アフター」は津波のシーンがあることから公開後1カ月も経たずに上映は中止、その他、上映が延期になった作品は数多く、東北地方を中心に被害を受けた映画館では上映ができないなど、年間興行収入は前年比約18%ダウンと落ちこみ、映画業界も大きな打撃を受けることになった。
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  • この表紙を見た瞬間「あゝ、岡田茂さんの追悼上映会をやんなきゃいけない」と思い、上映会を企画しました。
  • 解説
  • 反戦から時代劇、任俠、実録、エログロまで、日本映画界に多大なる影響を与え続けた岡田茂氏の追悼特集号。表紙は「日本俠客伝」。氏が世に送り出した作品でのエピソードから、告別式での親交の厚かった3人の俳優の最後の言葉、関係者の証言に、キネ旬に掲載された氏のインタビュー記事の再録、今の日本映画界、映画人が学ぶべきことを検証する34ページ。2011年、東日本大震災により多くの悲しみが日本にもたらされた年であったように、映画界でも東映名誉会長の岡田茂氏をはじめ、多くの映画人が惜しまれつつこの世を去った。原田芳雄、長門裕之、田中好子、児玉清、森田芳光、石堂淑朗、市川森一。映画・音楽・演劇などエンタメ情報を送り続けた雑誌『ぴあ』もこの年の7月に休刊した。
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  • この年の1月15日、大島渚監督が亡くなった。決算号の真っ最中だったが、最速で追悼記事を編むことが映画誌の使命だと思った。3月5日号に間に合わせた。大島渚不在の映画界の長い時間を必死に埋める試みだった。
  • 解説
  • 大島渚の追悼特集号。これまでキネ旬で語った監督のコメントの数々を再録、ほぼ全ての監督作について、関わりのある監督、俳優、スタッフ、あるいは評論家による証言などからその軌跡をふりかえる。その他、日本国際映画著作権協会が行った、映画館での映画鑑賞についての大々的な動向調査を基に、映画と映画館の未来を読み解くキネ旬ならではの記事が掲載。2013年、東宝は「風立ちぬ」の大ヒットなど、10年連続で年間興収が500億円を突破。宮崎駿は引退を宣言。過去の引退宣言撤回の例もあり、今後の動向に注目。相変わらずミニシアター、名画座の閉館が相次ぐなか、国内シネコン1号店のオープンから20年、シネコンにも再編の動きが。イオンがワーナー・マイカルを子会社化。館名もイオンシネマへ。
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  • 誌名ロゴを一新したこの号から私の「巨人と少年・黒澤明の女性論」の連載が始まった。途中、監督ご本人も熱心に読まれていると聞き、手ごたえと緊張感を持った。翌年、読者賞受賞。ちょっとだけ自信がついた。うれしかったなぁ。
  • 解説
  • 前号からロゴを含め、表紙、グラビア、本文のレイアウトが一新。新連載も4本同時に開始と、新年を新たな気持ちでスタートさせる気概が伝わってくる号。そのなかで尾形氏の連載は大きな目玉として、編集後記にその野心的な試みが特に触れられている。ちなみに、この号から新しくなったキネ旬のロゴは、この後2002年6月下旬号にマイナーチェンジするまでの約10年間、本誌の顔として使われることになった。図らずもこの年は、前年にクウェートに侵攻したイラクに対し多国籍軍が空爆を行ったことから“湾岸戦争”が始まった年であり、年末にはソビエト連邦が崩壊するなど世界情勢も大きく変わっていった年だった。なお、キネ旬ベスト・テンは山田洋次の「息子」とアカデミー賞7部門に輝いたケヴィン・コスナーの「ダンス・ウィズ・ウルブス」が一位に輝いた。
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  • 「日本映画の現在」というアンケート特集に、50名ほどの映画人が答えているのだが、当時バブル経済で浮かれていた時代に日本映画に絶望している人が多く、ちょっとショックを受けた。70周年記念のこの号の映画人アンケート、まんま現在と同じで、必読、再読なのだった。
  • 解説
  • 創刊70周年記念号として、二号に渡り特集を行ったうちの第一弾。映画人にアンケートを取った『日本映画の現在』のほか、『日本映画小史』、『思い出の一本の映画』、映画評論の草分け的存在の双葉十三郎・野口久光・淀川長治による座談会、『われらの青春時代』、創刊号復刻など盛りだくさんの特集。豪華賞品が当たる映画クイズも次号と合わせて出題。目玉賞品が、LD、CD、CDVが再生できるコンパチ機であるところに時代を感じる。前述のアンケートには、四半世紀が経った現在にも通じる日本映画への警鐘を鳴らしたコメントが数多くみられる一方、新しいメディアのビデオについては賛否入り乱れ興味深い。この年のはじめ昭和天皇が崩御され、テレビが自粛ムードに包まれる中、レンタルビデオ屋が大いに賑わった。またベルリンの壁が崩壊した年でも記憶に残る年であった。
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  • 思い出深い号はたくさんあるのですが、一号だけ選ぶなら自分の文章が「読者の映画評」に初めて掲載された号です。当時は20歳の学生。作品はジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」。もしこれがボツになっていたら、現在全く違う人生を送っていたような気がします。
  • 解説
  • この号での読者の映画評の応募総数は141通。その中から予選を通過し採用されたのは3本。ここから映画評論家やライターとしてデビューした方は数多く、キネ旬の社員でも学生時代に採用された者もちらほら……。この当時、採用された読者評には名前、年齢、職業のほか、なんと投稿者の住所が部屋番号など最後まで記載されている。80年代に出版していた俳優の人名事典にも住所が当たり前のように載っているなど、今からだと隔世の感がある。この年はバブル崩壊後の映画界を象徴するように、外国映画の公開本数が前年の467本から366本と激減した。キネ旬ベスト・テンの外国映画の一位はいわゆる“ヘア論争”が起こった「美しき諍い女」、日本映画は周防正行の「シコふんじゃった。」。バブルとは直接関係ないが、ディレクターズカンパニーが事実上倒産したのもこの年。